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少し 「盆土産」の読解

先日の模擬授業は三浦朱門の「盆土産」の読解。半分東北の血が入っている私としては、嬉しくなってしまう作品。

父が主人公の少年に対する思いを、盆土産のえびフライにどのように託しているのかを読んでいた。

また、また父が出稼ぎ先の東京に帰るシーンを取り上げて、少年が言いたかった思いと口に出てきた言葉、さらには父が言いたかった言葉と口に出した言葉のすれ違いを読み解き、すれ違いながらも伝わっているであろう思いを読んでいくという読解をやろうとしていた。

口に出た言葉と、思っていること考えていることが同じであることもあるし、違うこともある。

また、一つの行動は一つの動機からだけで行われていることもあれば、複数の動機が重なって行われていることもある。

物語の読解は、後者の立場をとる。
だから、教員養成にはとても大事なレッスンだ。
そんなに簡単じゃないんだよ人間は、ということを理解する。いや、単純なものでもあるけど、そうでもないんだよということを理解するのだ。

この頃、世の中ではバッサリと切り分けようとすることが多いように思う。白か黒かで分ける作業だ。

だいたいからして、ある特定の国の人が全て同じような才能、性格であるということはありえない。少数の人たちへの思いはどこにいってしまったのだろうかと思う。

別に物語文の読解の目的がそこだけにあるとは思わないが、そういうことの「読み」もできる。

本文の最後のあたりに次の記述がある。

バスがくると、父親は右手でこちらの頭をわしづかみにして、
「んだら、ちゃんと留守してれな」
と揺さぶった。それが、いつもより少し手荒くて、それで頭が混乱した。んだら、さいなら、と言うつもりで、うっかり、
「えんびフライ。」
と言ってしまった。
バスの乗り口の方へ歩きかけていた父親は、ちょっと驚いたように立ち止まって、苦笑いした。
「わかってらぁに。また買ってくるすけ・・・・・・。」
父親は、まだ何か言いたげだったが、(後略)

この部分の読み取りをするとき、学生たちは、いつもと違って手荒に頭を揺さぶったのはなぜかと言う問いを立てていた。これはこれでいい。

しかし、大事なのは手荒に揺さぶったのではなく、少し手荒に揺さぶったの、「少し」なのだ。手荒と少し手荒は違う。書き手はそこに「少し」を書いたのだ。これは何を表しているのかを読み取らせたい。

その違いを中学生が自分で見つけることは難しいだろう。だから、教師が授業でガイドをする。そうすることで、生徒が自分で物語を読むとき、次に出てくる「少し」のような表現に気がつき、味わえるようになるのだと思うのだ。

幾層にもなっている物語を丸ごと受け止めつつ、分析的にも読む。これが、面白いんだよねえ。

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