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言葉の呪縛からの解放 〜「ありがとう」を言わない娘と向き合って

5月23日は、娘の7回目の誕生日。でも社会は緊急事態宣言の渦中。半年前から予約していたキャンプ場はキャンセルし、自宅で家族で過ごすことに。

自宅にいても、みんなとワイワイ楽しむことが大好きな娘に喜んでもらうには? あれこれ考えて、身近な人々とオンラインでつながることを計画。午前中は、じいじ・ばあば、従兄弟のみんなとビデオ通話でつながり、久しぶりのおしゃべり。贈ってもらったプレゼントを開けたり、ピアノを披露したり、穏やかで幸せな時間を過ごした。午後は娘にはサプライズで幼稚園からの大切なお友達4人に集まっていただき、「オンライン誕生日会」を開催。ゲームをしたり、近況を報告しあったり、なんでもない時間を楽しんだ。夕方は、親戚の叔母さんが仕事帰りに立ち寄ってくれて、またまたプレゼントをいただいて。とにかく、たくさんの人から「おめでとう」を受け取った。

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「ありがとう」を言わない娘との対話

でも。私はこの日、ずっと気になってしかたないことがあった。それは、娘が一度も「ありがとう」と言っていなかったこと。朝から、いったい何度「おめでとう」と言われただろう。でも娘はそれに対して答えることはなく、そのたびに私は「あぁ、まただ…」と、もやもやした気持ちに襲われていた。

今に始まったことではない。娘は小さな頃から「ありがとう」とか「ごめんね」を言うことがとても苦手で、私の目には、トラウマなのかな?と感じるくらい頑なに見えていた。私はそれがずっと気がかりだったが、「ありがとうは?」や「なんていうの?」という強制に近い声がけは違うと思い、いつか本人が気づいてくれるだろう、と思いながら、私たち親は、娘にも周りのみんなにも、いっぱいいっぱい「ありがとう」を伝えて生きてきた。背中を見て、親のあり方を感じて、きっといつか言えるようになる、と信じて。

でも、この日の娘は、おかしいくらいに「ありがとう」と言うことを拒絶しているように見えた。あまりにもしんどい状況に思い、夜、主人も交えて3人で話をした。感謝の気持ちを伝えることは、私たちが一番大事だと感じているということ、言葉にしないと伝わらないものもあるということ、「ありがとう」は、誰かの気持ちをうれしくするけど、自分の気持もうれしくしてくれるということ。「ありがとう」を言えなくても、パパとママは絶対にあなたを愛し続けるけど、あなたがこれから出会う人に誤解されるかもしれなくて、それはもったいないということ。

その上で、「今日、どんな気持ちだった?」と娘に尋ねた。気持ちを聞かせてほしい、と。すると、ポロポロ泣いてしばらく何も言わずに私たちの話を聞いていた娘、小さな声で、私の耳元でひそひそ話で、「うれしかった」と伝えてくれた。私は娘をぎゅーっと抱きしめ、「気持ちを伝えてくれてありがとう。じゃあそれ、伝えようよ。“ありがとう”じゃなくて、“うれしかった”って言ってもいいんだよ」と伝えた。そのあともいろいろ話をして、娘は、今日お礼を言えなかったみんなに「お手紙を書く」と言ってくれた。翌日からさっそくお手紙や交換ノートを書き始めた娘。今頃みんなに届いている頃かもしれない。

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「言葉の呪縛」という気づき

そんなやりとりを経て、ここ数日、娘と「ありがとう」という言葉について思いを馳せていた。

娘の中では、恥ずかしい気持ちが大きく、もともと頑固で意地っ張りなところもあって、大事だとは知りながらも言えなくなっているのだろう。そして私たち親が感謝の気持ちを一番大切にしているということが、きっと痛いほど娘には伝わっている。それを知ってるから、彼女にとっては重みとなって、余計言えないのかもしれないとも思う。

思考を巡らせる中でハッとさせられたのは、サプライズに参加してくれたママ友の反応。娘が「ありがとう」を言えなかったことを詫びると、「え?言ってなかった?気づかなかったよ」、「こなつちゃん(娘の名前)の気持ちは言葉じゃなくても伝わってるから大丈夫」と。あれあれ?なぜ私はこんなにも言葉の「ありがとう」にこだわっていたのだろう…。

大切なのは、言葉じゃなくて気持ちだ。しかも感謝の気持ちの伝え方は、何も「ありがとう」「うれしかった」といった言葉だけじゃなくてもいいはず。表情や仕草、そのあとの行動など、言葉じゃないコミュニケーションのとり方もある。娘の「うれしかった」が、みんなに伝わっていたとしたら、娘はそんな非言語のコミュニケーションをしていたのだ。私は言葉にこだわりすぎていたために、そんな娘のコミュニケーションを見逃していたのかもしれない。

言葉の呪縛から自分を解放してみると、誕生日の日の、娘のはにかんだ表情や、画面の向こうにいる人にそっといただいたプレゼントを差し出す行為、ハイテンションでみんなを仕切る様子など、思い返せば確かに、言葉にならない「ありがとう」がそこにはあった。ポロポロと泣いていた娘の顔を思い出し、涙が溢れた。

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娘の「言葉」が気になって仕方なかった原因は、私の中にある。ライターを生業にしていて、言葉の大切さや怖さ、強さを知っているがために、私はいつも言葉を大切に生きてきた。「ありがとう」は、その中でも一番大事にしてきた言葉で、私のあり方を象徴するような言葉でもあった。だから娘にもそれは伝えたいと思っていたし、これまでも伝えて生きてきた。でもそれを受け取った娘が、同じように大切にしたいと思うかどうかは、別問題だ。子どもは親の大切にしたいことを受け取り、自分なりに大切にしたいものをつくりあげていく。それが親とは違うものであっても、子どもの価値観として認めてあげたい。違う人間なのだから。

言葉の強さで見えなくなる大事なこと

言葉は便利だ。そして、とても強い。「ありがとう」と言えば、感謝の気持ちを素直に伝えられる“いい子”に見える。世間体も良く、そのわかりやすさ故に、背後にある大切なもの、たとえば本当に心からの感謝があるかどうか、ということは見落とされてしまう危うさを持ち合わせているのだとも思う。「ありがとう」を強制的に言わされて育つと、感謝の気持ちが無くても「とりあえず言っておけばいい」ってことになってしまうかもしれない。以前書いたこの記事にも通じるものがあるかな。

もう一度言うけれど、大切なのは気持ちであって、言葉じゃない。娘は言葉じゃなくても、仕草や表情やお手紙など、いろいろな手段で「ありがとう」を伝えてくれている。それをちゃんと感じ取ったり受け取ったりできる自分でありたいと、改めて思った。

ほら、母の日には、こんな心からのメッセージをちゃんと贈ってくれていたよね。

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言葉偏重ではない社会があったっていいじゃない

でも、不安が無いわけではない。

私たち家族や、今私たちの周りにいる人々は言葉で表現できない娘のことを認めてくれているけれど、これから社会に出ていったとき、娘は誤解を受けてしまわないだろうか。言葉での表現が苦手なために、損をしてしまわないだろうか…。

でもそこは、娘を信頼して。きっと彼女なりに経験の中で気づいていってくれるし、ひょっとしたら言葉偏重ではなく多様なコミュニケーションを容認し合うような新しい社会をつくってくれるかもしれない。わかりやすく便利な言葉で本質を見失うよりも、そのほうがよっぽど価値あることじゃないか。

「ありがとうは大事だよ」、と教えるのは簡単。でも、それよりも、「感謝の気持ちの表現は言葉だけじゃないよね」と、今の娘のあり方を認め、本質的なところを伝えられる私でいたい。その本質を、娘や大事な人々と共有していたい。そんな価値観も認めあえる、ゆるやかでフレキシブルな社会をつくっていきたいな。

今日も娘をぎゅっと抱きしめながら、眠りにつこう。

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7歳、おめでとう。今日もママをママでいさせてくれて、ありがとうね。





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