書きなぞる

「ふたご」を読んで、猛烈に文章が描きたくなった。
何を描きたいとかじゃなくて、猛烈にただかきたい。でも何を使って描くのかもたもたしてしまった最初はペンで書こうとした。ボールペンで。
でもクマがついたボールペンも違う気がしたし、前にいた会社のロゴが入ったボールペンも違う気がした。それなら鉛筆で書こうと思ったけど、久しく文字を書いていない自分の字が想像できなくてやめた。この衝動をそのまま文字にできないもどかしさをあとから手書きを文字に起こすほうが大変と思い、スマホで文字にしている。手書きのノートに残るより、全世界に公開できるノートの方が安全と思ってしまうのはなぜだろう。保存したいのに見られたくない、誰にもではなくて、近くの人に見られたくない。幸い連絡を取る友達は少ないし、本当に近い人はSNSを交換しない。SNSも今は色々あって、なんとなく出す内容だって誰に見てもらうかを自覚して出している。
どこにも出したくないこと、誰にも見られたくない見てもらう必要のないことはスマホのメモや下書きに入っている。
これだって誰にも見られない保証はない。何がこんなにも恥ずかしいのだろう、何がこんなにも渦巻いているのだろう。穏やかだったはずの人生が、小説やドラマを見て揺さぶられ本当は色々あったと思いたいのか、後になったら忘れていることもわざわざ思い出すことに何の意味があるのか。
言葉と音楽は、アートはなぜ表現として評価されるものになってしまったのか。
言葉、音楽、ダンス、絵はただの趣味ではない。表現手段だ。自分で思うように表現ができるようになるにはただそこに向かうしかない。受験でも人のためでもない、誰と競い合うでもなくそこに向かっていくことだ。淡々と、一人で。そこで誰かと出会うために。

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