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大学の「ワーク-ライフ・バランス」

お世話になっているP大学は、有名な州立大学やアイヴィーリーグのような、影響力のある論文を多く輩出する研究に特化した大学(その上位校はResearch 1と呼ばれる)ではなく、授業と学生の支援に最も力点をおく、Teaching Universityと呼ばれる大学である。

Teaching Univ.には、研究はほとんどせず授業と教科書作りに専念する教員も多い(決して悪い意味ではない)。クラスは20人以下の小規模なものが中心で、一方的でないディスカッションをベースにした授業と、豊富なオフィスアワーやキャンパス内での教員との距離の近さが魅力でもある。そうした仕事環境を楽しむ研究者もいる。

一方で、特に博士課程を終えて間もない、研究への情熱が燃え盛っている若手研究者にとっては、Teaching univ.での授業負担は非常に重く感じられるようだ。こちらに来てからB教授に素晴らしい若手教員者を何人か紹介してもらったが、みな授業負担の重さと研究時間の不足に苦しんでいた。

確かに博士修了後にR1に就職した人は、豊富な研究費と研究時間、巨大な図書館など資料への好アクセス、周囲の同僚との競争やプレッシャーなどが相まってどんどん研究成果を発表し業績を積み上げていく(同時に巨大なプレッシャーとストレスで体調を崩し研究を去る人も少なくない)。

そんなかつての院生仲間たちの様子を横目で見ながら、Teaching Univ.で働く若い研究者たちの気持ちが焦るのはとてもよく分かる(それでもフルタイムの仕事が見つかるのはラッキーな方だという辛い現状も)。6、7年後にはテニュアの審査もあるから、研究成果が発表できないと仕事を失う可能性もあるので、彼らの焦りは強い。

日本の大学の現状は…

私も日本のK大学に就職してから、授業負担と学生関係の業務の多さに参ってしまった。研究者なのにまともに本を読むこともできないし、ひとりの学生に使える時間はごくわずか。

1学期の授業負担が7コマや8コマというのは日本の私大では当たり前のように扱われるが、私はこれが当たり前の労働環境は本当に恐ろしいと思う。これで科研などの外部資金も取ってこいとプレッシャーをかけられるのは理不尽そのものだし、実際の労働時間は労基法で定められた時間をはるかに上回る。

(他の仕事もそうだ!という人もいるのかもしれないが、そうやってお互いに足を引っ張り合いながら過労死への競争を続けるのはバカバカしい。みんなもっと文句を言えばいいのにと思うし、労組がもっと実働できる組織になっていく必要があるのだろう。私にとってもこれからの課題だ)

質の高い授業をし、学生のサポートをしながら7-8コマ授業と外部資金をガンガン取ってきてちゃんと成果を上げるような生活は、少なくとも私にはできないし、できている人は、おそらくどこかで心身の健康を害すことになるだろう(数年前、若く特に持病もなかった同僚が心臓発作で救急搬送された)。

「ワークライフバランス」は、大学教員の間でも深刻な問題であるが、この「ワーク」の中でさらに「研究と教育、社会貢献」のバランスが難しい。一生懸命研究して論文を書いても、それを読むのはごく一部の研究者だけで、一般に読まれることはほとんどない。だから論文や研究書だけでなく一般向けの本や雑誌にまとめたり、招かれれば積極的に講演会やトークイベントに出かけていく。社会運動に関係する研究をする人は、その運動の現場に出ていくことも多いだろう。メディア取材の対応もある。東京2020前後の期間は、私は週2~3くらいの頻度で国内外のメディア対応をしていた。

労働者としての大学教員の健康状態を誰もチェックしていない

「それは好きでやっていることだろう」と思われるかもしれないし、それは事実である。でも社会貢献を職場から求められるのもまた事実なのである。大学は、「いい授業をしろ」「就職とメンタルヘルスも含めて学生のケアをしろ」「研究費を取ってこい」「論文を発表しろ」「社会貢献しろ」「メディアにも出て大学の宣伝を」「入試問題の作問と採点、監督と、あ、大学運営もよろしくね」とさまざまなかたちで要求する一方で、そこでバタバタ倒れていく教員へのケアは、ない。

大学専任教員の大半は個室のオフィスを持っている。そして他の教員とはほぼ完全に独立して仕事をするので、教員同士もお互いの仕事量を知らないし、健康状態も把握していないし(だって会議の時以外顔を合わせないんだもの)、それを管理する立場の「上司」もいない。誰も学内の業務負担が誰に集中しているかを把握していないのである。

だから仕事を真面目に時間通りにきちんとこなす、つまり頼りになる人のところに、学内の色んな部署から仕事が降りかかってきて、恐ろしいほどの業務負担が集中したりする(+そういう人には学会や研究者仲間、メディアからの仕事もやってくる)。鬼のような学内業務をこなしているのは、ありがたいことに私ではないが、そういう教員をたまに教授会や廊下で見かけると、やつれ方が酷く、とても心配になる。

K大学には年に1回、形式だけの「メンタルヘルスチェック」がある。メールでリンクが送られてきて、オンラインのアンケートに答えるものだ。K大学で働き始めて以来、7年間ずっと「強度のストレス状態」という診断が出ていて、最後に「関係機関に相談してね」みたいなメッセージが出てくるだけで、具体的なフォローアップはない。大学から直接カウンセリングや休養について連絡がくるわけでも、業務負担の軽減が提案されることもない。一応労働者の健康状態をチェックしています、という見せかけを作るためだけの仕組みだ。

だからこんなアンケートに回答するのは時間の無駄と感じられるし、馬鹿馬鹿しくなってくるが、将来労災で倒れた時の証拠として、毎年ちゃんと回答だけはしている。

有害な「自己責任論」と「自由競争」

「でもアンケートで自分の状態が客観的に見えることは大切なのでは」

と思う人もいるかもしれない。全く無意味だとは言わないが、過労状態にある人のほとんどは自分が強度のストレス状態にあることくらいわかっている。

スポーツ選手と同じで、プレッシャーの中で必死に働いている人自ら退場したり、ペースを下げることはとても難しい。それは経済的な理由かもしれないし、責任感や目標を達成したいという願望からかもしれない。いずれにしても、周りが働きすぎを止める仕組みが必要だし、その状態に陥ることなく生活が成り立つ組織づくりと、組織がそれに失敗しときにセーフティネットがちゃんと用意されている社会が必要だ。

それがきちんと用意されず、競争と自己責任論だけがもてはやされるアメリカ社会の現状はどうか。世界で一番「豊か」なはずのこの国では、驚くほどのテスラが道路を走る一方で、住む家を失った人たちが、なんとか体を休める場所を探して彷徨い、フェンタニルの過剰摂取が急速に広まっている。

アメリカがゴリ押しするネオリベ政策と価値観が日本の労働文化にも深く根付き始めているが、その末路は悲惨である。


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