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私と仲直り

女の子は顔を伏せたまま、両腕で自分の膝をギュッと抱え込んでうずくまっていた。

これは先日、偶然聞いた二人の方のインナーチャイルドのイメージ。二日連続で同じイメージだったものだから、そのシンクロに驚いた。

【インナーチャイルド】内なる子ども。子どもの頃の体験から、徐々に培ってきた自分の一部。特に、傷ついた子どもの心を指す。

私がインナーチャイルドワークに初めて取り組んだのは、かれこれ8年ほど前のこと。
目を閉じて、セミナー講師の声に誘導されながら、階段を一歩ずつゆっくりと降りていくと、扉が現れた。その扉を開けると、前髪をパッチン留めでとめた、おかっぱ頭の幼い私がポツンと一人で佇んでいた。
それ以降のワークの記憶はない。頭の中で人物をイメージをして動かすのが難しくて、よく分からないまま終了した。

2年前に再び取り組んだインナーチャイルドワークは、ペアワークで行なった。自分の中から出てきた情景をまずは味わってから、そのイメージや人物のセリフをペアの人に語りながらワークを進める形式だった。


小さい頃の私は、大人しくて手がかからない子だったらしい。
当時、1歳半だった私は、つわりで体調を崩していた母を起こさぬように、そっと布団を抜け出して、カーテンから漏れる日の光を頼りに、静かに一人遊びをしていたという。
祖父母の家に行っても、「あら、そこにいたのね。あんまり静かだから、気づかなかった」と言われたり、卒園アルバムの担任の先生のメッセージには、「ゆきこちゃんは大人しくて、あまりお話できなかった」と書かれたり。
私のうっすらとした記憶をたどっても、特定の仲のよい友だちがいなかった。そのため、内気で存在感の薄い子というイメージがあった。


ワークの中で、ふと出てきたのは、園庭の日当たりのよい場所にしゃがんでいる幼稚園児の私だった。当時、虫眼鏡で太陽の光を集めて、クレヨンで黒く塗り潰した紙を焼くという遊びにハマっていた。誰と話すでもなく、紙がじりじりと焼けて、一筋の煙が日の光の中を上がっていく様子に一人夢中になっていた。

大人の私がチャイルドの私の隣にそっとしゃがみ込んで、「楽しそうだね」と声をかけると、彼女は無言のまま、ちょっと嬉しそうな表情を見せた。
一緒にやりたいと思った大人の私は、「一緒にやってもいい?」と聞くと、こくんとうなづいた。
並んでしゃがんでいる二人は、太陽の光を浴びながら、黙って虫眼鏡を持ち、紙がじりじりと燃える様子を夢中になって楽しんだ。会話はなかったが、お互いの存在は感じていて、とてもあたたかな時間が流れていた。

今度は、チャイルドの私の中に入ってみると、周りの人たちが自分の視界から一切消え、自分だけの世界にいた。でも、ひとりぼっちという淋しさはなく、満たされた感覚が広がっていた。それを味わっていたら、胸がいっぱいになり、涙がポロポロ溢れてきた。
大人の私が、
「いい時間を過ごしているね」
とチャイルドの私に声をかけると、チャイルドの私は、
「ただ『楽しい!』っていうだけでいいじゃん。意味があるとかないとか、役に立つとか立たないとかはどうでもいいことだよ」
と言った。

コレをやってみたい!と思っても、「それをやって何になるの?役に立つの?」と考えてしまいがちな大人の私。
余計なことをごちゃごちゃ考えずに、直感に従って、やりたいと思ったことをただ楽しめばいい。思いがけずチャイルドの私に背中を押してもらった。
「ありがとう」とお礼を言って、ワークは終了した。

それ以来、インナーチャイルドには会っていなかったが、二人からインナーチャイルドの話を聞いたことで、朝、瞑想をしている最中に、久しぶりにインナーチャイルドに会ってみようと思い立った。
すると、チャイルドの私が、屈託のない笑顔を浮かべて、いきなり大人の私に抱きついてきた。チャイルドの私の思いがけない行動に一瞬たじろぎながらも、嬉しくてすぐに彼女を抱き上げた。ありったけの「大好き」を込めてチャイルドの私を抱きしめると、彼女も嬉しそうにギュッと抱きついてきた。
それを味わっていたら、いつの間にか私は涙を流していた。
ずっと会っていなかったのに、コツコツ丁寧に自分の声に耳を傾けていたら、私たちの距離はいつの間にか縮まっていたようだ。

「眠いなぁ」
→じゃあ、予定を変更して昼寝をしようか

「久しぶりに温泉にゆっくり浸かりたい」
→今夜は近所の温泉に行こうか

「夕飯つくるの、面倒くさいなぁ」
→そっかぁ、じゃあ、どうする?
「でも、出かけるのも出前もピンと来ないから、とりあえず冷凍モノで適当に済ませようかな」

「嫌だなぁ」「気乗りしないなぁ」
→じゃあ、NOと言って断ろうか

自分の望みを叶えられるときは、できるだけ叶えるようにした。叶えられないときも、その気持ちは受け止めるようにした。
過去の私は、その真逆をやっていた。周りの人の気持ちを優先して、自分の声を聴こうともしていなかった。そもそも、自分の声にすら気づいていなかったかもしれない。

チャイルドの私との距離が縮まったのは、小学校で接している子どもたちの存在も大きいかもしれない。
特に、発語がほとんどない自閉症の男の子との歳月は、私にたくさんのギフトを与えてくれた。
二回目のインナーチャイルドワークで私が味わった「会話はなかったが、お互いの存在は感じていて、とてもあたたかな時間が流れていた」という感覚を、その後、実際に彼とも味わう機会があった。

ある日、彼は朝から落ち着かず、奇声を発しながら教室内を行ったり来たりしていた。担任の先生に、気持ちが少し落ち着くかもしれないから、彼が好きな絵本の読み聞かせをしてあげて欲しいと言われた。
いつものように読み始めると、すぐに彼の奇声はおさまった。ああ、よかったと思いながら、彼が読んでほしいと指さした箇所だけを何度も繰り返して読んだ。

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しばらくすると、彼は、絵本に添えていた私の右手をつかみ、私の右手で自分の左手の甲を優しくなで始めた。彼の顔を見ると、目には涙がいっぱい溜まっていた。
朝から落ち着きなく歩き回りながら奇声を発していたのを思い出し、とっさに、何かあったのかもしれないと思った。
「何かいやなこと、悲しいことがあったの?」
と彼に話しかけた。
言葉で表現することが難しい子だから、返事はないだろうと思ったけれど、聞かずにはいられなかった。話せなくても、こちらが話していることは理解できているから。
返事はなかった。
「きっと何かあったんだね。そうか、辛かったね」
今度は、私は自分の意思で彼の手をさすりながら言葉をかけた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
とつぶやきながら。
彼の目からぽろんと涙がこぼれた。

絵本の読み聞かせを中断してしまったが、彼の奇声は止んだままだった。
気持ちが落ち着いたようで、私と反対の方に顔を向けて机に突っ伏した。私は、窓から見える綺麗な青空とぽっかりと浮かぶ白い雲を静かに眺めた。
いいお天気で気持ちいいなぁと思ってぼんやりしていたら、彼が突っ伏した体勢のまま、私の方に少し寄ってきて、彼の肘が私の手に触れた。私の存在を感じたかったのかもしれない。
お互いの存在を感じながら、静寂の中で、心地よい時間が流れていった。私たちに言葉は要らなかった。
私が、あたたかく満たされた感覚を味わっていたから、きっと彼もそうだったんじゃないかと思う。

誰かと心を通わせる喜びは、とても豊かで味わい深い。「誰か」というのは目の前の人のことだと思っていたが、私自身のことでもあると知った。

こうして私は、いつの間にか私と仲直りしていた。

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