2024/6/4


突然友達がうちにきてご飯を食べると言い出して、ありあわせのおかずと、スーパーで買ってきた刺身を、二人で食べた。もう真夜中になろうかというころになって、近いなりに遠いところからきたその人は、散歩がてら歩いて帰るという。二時間くらいはかかるんじゃないかというその道を、私も自転車を押して途中までついていくことにした。まだすこし肌寒い夜の道を、二人で歩く。てきとうなことを話しながら、町のひかりが、歩く速度で過ぎていく。都内とはいえ、都心からはそれなりに離れているような市域の、誰もいないのに明るすぎるコインランドリーや、久しぶりに見る畑や竹林、暗がりに落ちている卵の殻。見つけたものを話題にしては、それらはやはり、だんだんと後ろに遠ざかっていった。

途中で見つけた細い道を、これは暗渠ではないかと言いながら進んでいくと、ある程度いったところで開渠になって、そこからはその小さな川沿いをしばらく歩いた。橋のあるところまできて、なにか貼ってある文字を読むと、白子川(しらこがわ)というらしい。夜の暗さに、その名の白がぼんやりと浮かぶようで、なんとなく美しい名前だと思った。やがて電車の音が聞こえてきて、私たちは線路の向こう側を目指すことにした。どうやってその線路を越えたのか、なぜかどうしても思い出せないのだけれど、高架になっていたのを川沿いから見たような気がするから、下をくぐったのかもしれない。

散歩はどのようにしても好きだけど、やはり真夜中の散歩は格別であるような気がする。夜の町はおもしろいですね、と言って、いつもは眠っているはずの時間帯の世界を目撃していることや、こんなにも家がたくさんあるのに道に誰も歩いていないことの不思議さを話す。

もうそろそろ足が疲れてきたころ、見つけたセブンイレブンに寄って、ホットコーヒーを持ちながら座り込む。友達がトイレに行っているあいだ、ここはどのあたりだろうかと思いながら、近くに見えている高層マンションを見上げたりしていた。やがて戻ってきた友達も、隣に座って、しばらくは話をしたあと、そろそろ帰ることにする。さすがに家まで着いていくわけにはいかない。じゃあまた、と言って、自転車にまたがる。すこし雲行きも怪しいような気がして、スマホで地図を確認しながら急いで自転車をこいでいった。たぶん友達のほうは、まだ一時間以上ひとりで夜道を歩くことになるだろう。

ついさっき歩いてきた道と、何度か交差したり、また別れたりしながら、ぐんぐんスピードを上げていくと、ずいぶん遠くまできたと思っていたはずなのに、すぐに見慣れた道に出てきて、15分ほどで家についてしまった。あっけなくもあったが、自分はその近さが妙にうれしかった気がする。町のまばらな光のなかを歩いていたとき、コンビニに座り込んでいたとき、たしかに私はずいぶんと遠くの町にいたのだと思う。真夜中という不思議な時間のおかげだったのかもしれないけれど、たとえば自転車で15分ほどの距離でさえ、私たちはどこか遠い場所に行くことができる。
 

※文中、線路を越えたという記載があるが、あとで休憩したコンビニの位置を地図で確認したところ、私は線路を越えることなく引き返してきたらしい。どうりで記憶がないわけだ。





川野芽生の『幻象録』をここ数日読んでいる。だいたい半分ほど読んだだろうか。読む速度の鈍い私にしては異例のはやさである。
どうしてこのような勢いで読んでしまっているのだろうか、と思うと、例えば、内容が面白いことや、書き手の明晰さからくるわかりやすさなど、いろいろあるけれど、ここにはもう少し微妙で、後ろめたい動機も潜んでいるように思う。

本書は時評をまとめた本であるので、全体でなにかおおきな主張をするというよりは、話題を異にするそれぞれの短文を読んでいくことになるのだが、社会、あるいは短歌界のできごと、また短歌作品そのものの読解を通してくりかえし語られるのは、この社会が抱える差別や不平等であり、ときに鋭く歌壇の構造の問題点や、他の論者の認識の甘さや矛盾を指摘していく。

川野の書くことのいくつかは、私を共感させ、あるいは苦々しい気持ちにもさせられた。いつか私はツイッターで「専業主婦になりたい」と発言したことがあり、そのときはフォロワーの何人かから、あきれられたり、叱られたりしてしまった。ニュアンスは字面通りではなかったし、直後はなんとなくただ怒られたという感覚だけがあって、どちらかといえば反発的な態度をとったようにも思うが、社会に現にある男女の格差や、女性が家庭における労働を長く押しつけられてきたことをおもえば、悪い表現だったのは間違いなく、家庭における労働は女性が担うものだという前提を内面化してしまってもいるだろう。

とはいえ、やはりこのことは長く自分の胸に引っ掛かっていたようで、ときどき思い出しては、正直なところ、なにが悪かったんだろうか、という気持ちになったりもした。例えば、差別を実際にすることと、そのような発言をすることとの間にはそれなりに距離があるのではないか、とも思っていた。

「差別と差別表現」と題された時評において、川野はつぎのように言う。

言葉は使う者の認識を規定する。被差別者を抑圧してきた歴史を引きずった言葉を使えば、使い手の認識も無意識のうちにその歴史に呑み込まれていくことになるし、それを発することで他者にもその認識が伝播する。そうした言葉は差別主義者の旗印にもなる。(中略)発話者は無意識のうちに差別を内面化し、差別扇動に加担してさえいる。(P109)

どの論者も差別を個人の内面の問題に還元しがちで、差別語を用いることが差別の社会的な「実践」になるという意識が欠けているように思われる。(P110)

川野芽生『幻象録』

そうだな、と思った。まだちゃんと飲み込めていない部分もあるが、ひとまずこの文章は私の抱いていたわだかまりに対する明確な反論になっている。


さて、私はなぜ『幻象録』をすごい速度で読んでいるのかと言えば、実のところ「怒られたくないから」ではないか、という気がしてしまっている。この本を読んでいる私は、ここに書かれている社会の矛盾にともに憤り、変えたいという気持ちよりも(ここには、自らの当事者性に無関心という問題もある…)、これを読み通せばより政治的に間違えない私になれる、という欲求において、先へ先へと文章を読み進めているのかもしれない…。後ろめたい動機だといったのは、この点からである。いわば、本気で事態の重さを考えているのではなしに、ただ自らのふるまいを最適化しようとしているような感覚がある。とはいえ、引用部分からは、ひとまず「実践」しないことを実践することは、無意味ではないのではないか、とも思う。


ここまで書いてきたけれど、こんなことを書きたいわけではなかった、というか、やっぱり単純に面白いからどんどん読んでいるというのも大きいなと思い直している部分もある。まだ途中だが、特に印象的だったのは、「幻想とはなにか」におけるファンタジーと現実の脱構築や(実は夜の散歩の話はこの時評を読んだことによって思い出されたことである)、また「第一歌集点景」における榊原紘『悪友』評の明晰さ、あるいは「短歌は天皇制を批判できるか」において提示される問題系など。もやもやと考えつつ、後半も読んでいく。




さて、『幻象録』の「短歌は天皇制を批判できるか」は、歌人の戦争協力の歴史なども背景にした議論であり、またこの本のさまざまな場所で、川野が短歌と権力との関係について思考していることがみてとれるが、ここでまた私は、「鯉派」の「私性」試論をおもいだしている。あの文章を出した直後に、いろんな反応をいただいたが、私の書き方が悪かったのもあって、なぜ短歌プロパーは小説に対抗意識があるのか、というような疑問を呈されたこともあったと記憶している。それは私が執拗に短歌と散文(主に小説)を比較しながら論を展開したことや、短歌が身体化を促す構造を持つことによって散文では書きえない体感を生々しく伝えうるということを主張したために、散文よりも短歌が優れていることを主張したいような書きぶりにも映ったのではないかと思う。しかしそれには誤解があるということを、書きとめておきたい。(韻文と散文の身体性の度合いもまた相対的な差異でしかないのではないか、という指摘もあろうが、これから言おうとするのはそこではない)

あの文章は野村日魚子作品を読むための補助線としての性格もあり、指摘できることを指摘するだけのものであって、当然こんなことは書かなかったのだけど、書いていたときの正直な気持ちとしては、短歌の散文にはない特質としての身体性の高さは、長所でもありつつ、むしろ表出の仕方によっては危険性と表裏一体ではないか、という思いがあった。

散文はいわばその構文上の特質によって、過去と未来という架空の無限領域に接続されているために、身体の形成はどこかで失敗し続けることになる。だからこそ身体とは別の、論理と呼ばれるものがそこには形成されることになる(このあたりはもう少しうまく言語化したいが、私も理解できていない部分が大きい)。そして、論理には論理で反論することができる。立式の間違いを第三者が正す客観性の余地がある。しかし、そのような散文と同質の論理性を(特に“よくできた”作品において…)短歌に見いだすことは難しいのではないか、と思う。

歌人の戦争協力、あるいはもっと遡って、天皇はなぜ勅撰集という歌による装置で自らの権威性を確認しようとしたのか。私は、歌を読む/詠むことには、「合唱」の側面があることを指摘したが、やはりここにおいて「うた」というものが、論理以前に国民の身体を共鳴させることが期待されてはいなかったか、ということを考えてしまう。(じっさいどれくらい効果あったのか、という気もしつつ)
短歌はある側面において、身体ごとの共鳴を要請しており、それは論理的な判断が介在する以前に効果を発揮してしまうものだろう。私を含めて多くの人たちは、まさに短歌のこのような力に魅せられて、この詩型を愛好しているのではないかとも思う。つまり、短歌の散文に対する優位性と詩形のはらむ危険性とは表裏一体のものであって、切り離せるものではない。だから、どちらが優れているとかいう話ではない。

なにか無謬な表現方法がどこかにあるわけでもないだろうし、だとしてもやはり短歌を選ぶのかもしれない(最近作ってませんが・・・)。ただ、この詩形と長く付き合っていくつもりである以上、それがはらむ特質や、そこから起こり得る事態について、多少は考えていく必要があるのではないかと思う。






他の人の文章を読むたびに、みんなほんとうにいろいろなことを真剣に考えていて、ただただ圧倒されてしまう。わたしは最近なにを考えただろうか……、と思うと、ほんとうはなにも考えていないのではないか……ということを、ぼんやり後ろめたく思いながら、誰かの書いてくれた文章の断片と、ひととき戯れることで、なんとか思考の輪郭めいたものを見いだすことができる。



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