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NZ滞在7ヶ月が経過して考えている事/NZワーホリ🇳🇿

 6月からニュージーランドにワーホリに来て、7ヶ月が経過しました。改めて、今思っていることを吐き出しておきたいなと思って、書いていきます。

正直な自分で、ワーホリの目的を捉える

2023年、ひたすら自分に向き合った。
どんな自分になりたいのか問うてきたし、
自分の思いとか感情を客観的に観察したりした。

その中で、
なぜニュージーランドへワーキングホリデーをしたかったのか、
そもそもの所を考え直した。

すると、本心の目的と建前の目的があって、
自分の中でごちゃごちゃしてしまっている状態だと分かった。

そこをはっきりさせるために、
自分に正直になった。

正直になるのは本当に難しくて、
何というか、本当に難しいと思う。

自分では正直だって思っても、
まだ自分に正直になれていないこともある。
正直な自分ってなんだ?と問いすぎて、
自分が自分じゃなくなっちゃうんじゃないかという恐怖もあったりする。

難しいんよ。

ちなみに、
おれは自分に正直にいられている感覚があるし、
その感覚を言語化しておいた。

ワーホリに挑戦おかげで、
色んな選択肢が得られたと同時に、
選択することが増えすぎて、
ちゃんと自分軸で選択できているかわからなくなる時がある。

視野も広がるし、
見える世界も深まる。

今まではなんとか、
周りに対して自分を取り繕うことができていたが、
それが追いつかなくなる。
矛盾が生じる。

前は「A」だと言ってたけど、
今は「B」なんだねと言われてうろたえる。

でも、
自分に正直になって、
一つ一つのことを自分の感覚とかで判断できたら、
別になんてこともない。

自分軸があるってことなのかもしれない。

前に「A」だと言っていたけど、
今は「B」なんだねと言われたところで、

「うん、あの時から今は変わったからな〜」

って正直な自分なら、どうってことない。

自分に正直になれたおかげで、今すごくラクになった。

みんな認識で判断してることあるさ

ちなみに、上記の内容は、
この記事でも同じことを言っていたりする。

自己認識が判断していることってすごくたくさんあると思う。

例えば、NZの会社で働いている仕事の時もたくさん思った。

一つ場面を挙げると、研究する対象物の数を数える作業があった。
手作業で、一人一人が一つのサンプルをこなしていく。
説明は最初にされて、各々が作業を始める。
すると、Aというフォルダで数えるべきなのか、Bというフォルダで数えるべきなのか、微妙なものが存在する。
そこに明確な判断軸になるものがあれば良いが、
それだと時間を食ってしまうし、効率が悪い。
だから、判断軸になるものは設けず、
各々の判断で決めてということで進めることになった。

これ、大体基準はあっているかもしれないが、
正確では無い。

人の手を使って、
それぞれがそれぞれで進めているんだから、当然ぶれる。

「研究の仕事だからなるべく正確に進めていきたい」

と言われていたものの、
細部にはそうやって微妙な差異が生じていることは往々にしてある気がする。

そもそも人為的な差異とか、
ミスがあるのを前提に考えているのなら良いかもしれないが、
もし研究開発のお偉いさん達からしたらどうだろうか。

めっちゃ正確な数値を取って、試行錯誤して、
出した成果はコチラです
って言いたくなるんじゃないだろうか。

つまり何が言いたいかというと、
色んな差異やミスが含まれている結果というより、
丁寧に一つ一つ正確にやったという認識がある過程が大事なんじゃないかと思ったってこと。

自分が丁寧にやったか、一貫してできたか、ベストを尽くしたか。
細かい作業で絶対に差異がでるわけで、
丁寧にやる姿勢とか、一貫して行うと姿勢が大事。

手作業でやる工程がある時点で、一貫性なんてないし、
丁寧さもバラバラで、統一性なんてないに等しい。
一貫して決めたやり方で、工程で、やりましたっていう姿勢が大事。

丁寧にやったっていう認識が大事なんじゃないか??

ほかの人は自分、個人の事をみていない。
見ているのは、姿勢。
丁寧そうにやっていることが、
上の偉い人に報告する時に、
「みんな丁寧に心を込めてやっていた」と言える。

みんな、それぞれの認識。

出した答えに対して、
自分がどう思うか、
相手がどう思ったからと言って、自分にはあまり関係ない。
気にする必要はない。

相手が思っていることも、
相手の認識がそうってだけで、
それが自分に対して何か影響を及ぼさない。

影響を及ぼしていると思う場合は、
影響を及ぼされている自分の認識があるだけ。

ちょっと、ややこしい。

自分で、自分のことを、ちゃんと認識する

「人からこう思われたい」
「人からこうは思われたくない」
「悪く思われているんじゃないか」
「自分じゃないように映ってしまうんじゃないか」

おれも、とてもよく思っていた。

でも、今思うと、
それも全部自分の認識次第な気がしている。

「人からこう思われたい」
っていうのは、
自分ができない部分や不得意な部分が見えないようにしたいということかもしれない。

「人からこうは思われたくない」
っていうのは、
自分が人に対して嫌だと思うことだったりするし。

「悪く思われているんじゃないか」
っていうのは、
相手から嫌われたくないという欲求かもしれない。

「自分じゃないように映ってしまうんじゃないか」
っていうのは、
本当の自分を見て欲しいということに繋がるかもしれない。

全部本当は、
自分のことを「」では言っていたのに、
それに気づいていない自分がいる。
自分でも自分のことをちゃんと認識しきれていない。

最近、
少しずつだが、
おれはできる場面が出てきている。

そこに出会うと、
これこそがありのままな自分だなと思うのである。

自分を認識することで、
周りから他者から影響を受けない、
自由な身になれる。

自分のことを、
正直な自分でちゃんと認識していきたい。

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