キリと名付けた野良猫と過ごした頃

もう6年ほど前になるけど、秩父によく行っていた時期がある。遊びに行く訳ではなく、仕事で、月に25回くらい秩父に行っていた。ついでに川で遊んでたりもした。一人で。俺はそういう人間なのだ。

所沢、入間、飯能と続くバイパスを抜け、横瀬のサンクスを更に抜けて小鹿野方面にひたすら車を走らせると、廃業した工場のコンテナ置き場があり、そこにボロ雑巾のようになった年老いた野良猫が住み着いていた。

俺はそのコンテナ置き場をサボり場にしていたので、必然その老猫と出会う回数は多かった。
警戒心が強くて近づいてはこないが、遠目からじっと見てる。見知らぬ人間が恐ろしいのか、それとも単純に興味からなのか、もしくは暇なのか、理由はわからないが、じっとこちらを見ていた。俺も動物は好きなので老猫の方を時々見やって、あなたに危害を加える気はありませんよ、と伝える為に、老猫が立ち上がると目を逸らした。そんな日常が一ヶ月ほど続いた。

ある日俺が昼飯にしていたささみをうっかり落とすと、本当に老いているのかと疑う程の俊敏さで、老猫がささみを奪い去っていった。もっとも俺としても一応人間である事は捨てていないつもりなので、地面に落ちて砂利の付いたささみを拾って食べる気は毛頭なく、だから奪い去るという表現には語弊があるかもしれないが、とにかく俺の昼飯のささみは奪い去られた。

その日以降、老猫は俺が飯をうっかり落とすのを期待してか、少し近くに寄るようになった。
動物好きの俺としてはそれが嬉しくて、でもなんとなくこの警戒心の強い老猫との距離感が掴めず、おい猫、と乱暴に呼んで魚肉ソーセージの欠片や、チキンの油が少ない部分を投げてよこした。老猫はいそいそとそれを取りに行き、静かに食べた。

毎日飯を与えると、万が一俺がこの場所に来なくなった時に自分で餌を取らず死んでしまうと困るので、飯を与えるのは週に一度か二度に留めた。飯を与える回数が少なくても、徐々に老猫は心を開いたのか、足下にまで寄ってきて寝そべるようになっていった。

いつまでも猫、と呼んでいたのでは失礼だろうと、その老猫にキリと名付けた。名前をつけようと思い立った時が、とても霧の深い夜だったからだ。なんて安易な、と思ったが、その時の俺とキリの奇妙な関係性においては、そのくらい安易な名前の方がむしろ良いのだと思った。

キリ、と呼ぶとゆっくりと歩いてくる。でも、猫と呼んでも、試しにタンス、とかジャガイモ、とかキャプテン・アメリカ、とか呼んでもゆっくり歩いてくるので、多分名前を覚えたのではなくて、音に反応して近づいてきているだけなんだろうと思う。
でも呼んだら来てくれる存在がいるというのはとても良かった。その時の俺の精神と体力は仕事でめちゃくちゃになっていたけれど、なんとか狂ってしまわずに生き延びたのはキリの存在が大きかったのではないかと思う。

秩父にはうっかり死ぬには適しすぎている崖や峠や巨木が多すぎた。そういう魅力的な死の誘惑から目を逸らさせていたのは、多分キリの存在が大きかったのだと思う。

これは創作の物語ではないので話は急に終わるのだけど、気温がマイナス4度の冬の日。やっぱり霧がとても深い日だったのだけど(というかだいたいの日は霧が深いのだけど)、俺がいつも車を停める位置に、キリが寝そべっていた。どういう事が起きているのかはすぐに予想できた。側に車を停めて、降りて、キリを見下ろすと、やっぱりというか、残念な事にと言うべきか、キリは死んでいた。

かなり老いていたし、ボロボロだったし、死んでしまうのは必然のはずで、というよりずっと頭の片隅に予感があったという事もあり、不思議と悲しくはなかった。昔家で飼っていたインコやハムスターや、メダカですら死んだ時は大泣きしたというのに、キリが死んだ事に対しては、悲しいというより、なんというか、誠に遺憾である、という不思議な気持ちだった。友情でも同情でも愛情でもなく、なんとなく必要だったから一緒にいた。まだ俺には必要なのに死んでしまった、という喪失感はあった。

コンテナ置き場の裏の雑木林にキリの亡骸を埋めてやる事にした。善意とか優しさとかではなく、半年近く一緒にいたんだからそのくらいはしないといかんな、という当事者意識からの行動だ。

仕事柄、車の中にはスコップが積んであったのでそれを使って雑木林の土を掘った。一応誰の私有地でもない謎の場所という事はわかっていたから、遠慮なく土を掘った。必要以上に深く掘ってしまった穴にキリの亡骸を入れる為、キリを抱き上げた。意外に重かった。なに食ってんだこいつ野良のくせに、と思ったが、俺があげたソーセージやささみやツナ缶を食べていた。思えば亡骸を抱き上げた時、俺は初めてキリの身体に触れたのだった。

穴の底に横たわったキリの体に土をかけていく。やがて完全に土の底に消え、穴は塞がった。そうするべきだろうと手を合わせ、特定の宗教もないから、とりあえず目を瞑った。

車に乗り込んで営業所へと走らせる。涙は出なかったけど、その夜、会社を辞めると上司に伝えた。

その頃の奇跡みたいな日々をふと思い出したので書いてみた。現実はドラマではないから今日はキリと出会った日でもなければキリが死んだ日でもないのだけど、電車で居眠りをしていたら夢に出てきた。久しぶり、と思う以外に特別な感慨はなかったのだけど、そんな関係性が気持ちよくて、少しだけ寂しい。お前はもう少し人間に愛想良くした方が良いぞ。あと結構ブサイクだったけど、グシャグシャで不貞腐れた顔も結構気に入ってたよ。

それでは。

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