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バンドをやりたくて上京。そして性懲りも無く今も続けてる。1990年代〜編⑦(本当の意味での上京。またもや新バンド結成を目論む)

前回、友達と組んだユニット「デスコンピュータース」のことを書きましたが、オルタナ〜ジャンク〜スカム系のバンド「ミミックマン」でもライブを続けていてそれなりに企画にも誘われるようになっていた。

しかし俺の頭の中に「このままこのバンドを続けていていいのだろうか?」という疑問符が浮かんできてしまった。

この頃、テクノ系のクラブイベントにもたまに行くようになっていて、一時は気の迷いでクラブミュージック系の音楽にチャレンジしようかと思ったことも。

4トラックのMTRとリズムマシンを使って(今となっては処分してしまったのが悔やまれる)謎の曲を作ったりもしたが、自分にとってクラブミュージックのハードルは高くて早々に挫折した。

パンクは並行してずっと聴いていて snuffとかhardonsといったメロディックパンクのはしり的なバンドからF.Y.P.、GLIMPLE、7seconds、stupids、といった初期パンクでもなく、かといってゴリゴリの重いハードコアでもない軽めで疾走感のあるバンドを好きになっていた。

他には国内だとU.G.MAN、FRUITY、HARD CORE DUDEの登場は衝撃的だった。

そして居酒屋を辞めいよいよ船橋市からも出て東京は練馬区の石神井台に引っ越すことに。

石神井台には前回に出てきた石原くん、きん君、ジューシー君も住んでいる。

船橋市は千葉県だからこれからが本当の意味での上京だ。

これで中山競馬開催日にアパートの前で酔い潰れて寝転んでるオッさんを叩き起こしたりしなくて済むし、田舎に居た頃からまとわりついて離れない「昭和の不良〜ヤンキー的な磁場」からやっと逃れられるのでは?と思った。

そして、環境を変えると同時になんかもっとこう「竹を割ったようなスカッとしたバンド」がやりたくなってきてしまった。

ミミックマンでは自分がオルタナティブという形にはまっていってオルタナティブではなくなってしまっているという矛盾を感じていた。

メンバーとは仲が良かったけど周辺にはどうも気が合わない人達もいた。一度そう思うと違う世界に行きたくてしょうがなくなってきた。

せっかく順調に進んでいたバンドを辞めることは他のメンバーに迷惑をかけることになる。当時気にしていたことも今となっては大したこととは思えない。もう少し続けてみたらよかったのでは?とも思う。

そして結局ミミックマンからは脱退してしまう。

次はパンクバンドをやりたいという気持ちがよほど募っていたのか、最後の方のライブでは髪の毛をスパイキーにした上にコンバースに鋲を打ったりした格好で完全に「ストレンジパンクス状態」だった。

新天地に移り若干「ハイ状態」だったのか、雑誌でメンバー募集をすると同時に、それ以外にも電車の中で髪の毛を染めたパンクが好きそうな人を見かけるといきなりメンボのチラシ(フライヤーという言い方はまだ無い)を手渡して「ギョッと」されたりも。

居酒屋で働いていた期間は友達と休みは合わないし、途中から社員になった上にアパートには弟が同居していたのであまりお金を使っておらず結構な貯金が出来ていた。

今となっては「もう少し他に使い道が無かったのかよ!?」と言いたいが、いわゆる「無職」になってみたくてその貯金がなくなるまで働かないことに決めた。

練馬に引っ越してからもしばらくは弟と一緒に住むことに。

弟も無職状態で二人で毎日自転車でウロウロして「俺らきっと赤と銀のバカ兄弟とかあだ名つけられてそうだよな」と話していた。(自転車が赤色、銀色だったから)

※弟とは仲が良かったが、兄弟で暮らしているといろいろあって本当にブッ◯してやろうかなと思う位に険悪になってしまい、のちに別々に住むことに。お互いおっさんになった今は普通に話せる間柄に修復している。

貯金は100万円位あったけど引っ越し代と2〜3ヶ月ブラブラした後に仕上げにタイに一人で旅行に行ったりしたらすぐに無くなった。

無職〜タイ旅行の後はよほど「頭が沸いていた」のかアルバイトの面接に弁髪姿で履歴書も持たずに行き、それでも採用してくれたのに速攻で辞めたりするという無軌道っぷり。

その後に和菓子工場でのバイトが決まった時は、パートのおばちゃん達に某危険な新興宗教の信者と勘違いされたりするという珍事もあった。

そんなことをしていても運良く新バンドのメンバーは集めることができたのであった。


※見出しの写真は引っ越した練馬区石神井台の部屋。「上京感」が溢れてるな。

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※幼少時の俺と弟↑。「よい子」な雰囲気の俺(左)に比べて弟(右)のバッドボーイ感といったら、、。

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