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~精神病院というところ、嘘みたいなホントの話~


精神病院というところ ① 昔々あるところに
かつて・・・、今でも?
精神病院というところは、恐ろしい、ひどい所だと思われているのかな?
最近の様子はあまり詳しくありませんが、昔々の嘘みたいなホントの話を書き綴ってみました。

昔々あるところに○○病院という精神病院があったとさ。
ちなみに、日本に最初に精神病院ができたのは明治のことで、京都癲狂院(現川越病院)からはじまったんだとさ。
昔々、子ども達は一様に悪いことをすると○○病院から△色の救急車が連れにくるとおどされていたものです。
救急車伝説は地域によってその色が緑だったり黄色だったり、いろいろ違っていたようです。
子ども心にどれほど恐ろしい所なのかと思ったものです。

その恐ろしい所に自分が就職することになったのには、我ながらびっくりだ。まだ精神衛生法の時代でした。就職して間もなく大熊一夫による「ルポ精神病棟」が出版され、センセーショナルな社会現象となった。
さらに、そこに30年も心理職として在職していたのも我ながら驚きだ。当時は心理職なんて誰も知らないし、臨床心理士なんて資格もなかった。
そこは地域では知る人ぞ知る1950年〜1960年あたりの精神病院乱立時代に設立された精神病院で、鬼の○○、蛇(邪)の△△、助けてください◇◇さん、などと椰揄されていた○○病院だったのです。(こういう話は入院患者さんから教えてもらいます)
そして、なんと救急車ではないが△色のバスが実際にあったのよ。しかも2台も・・・。

そしてね「△(色)いバスに乗せられてぇ♪ ゆらぁり揺られぇて着くところぉ♪ その名もたぁかき◇◇(地域名)のぉぉぉぉ〜♪ ○○病院んん~精神科ぁ〜♪ 朝も早よから起こされてぇ〜♪ 苦い薬を飲まされて♪ たまには婦長にめだまくいぃぃぃぃ〜♪ 泣く泣く暮ぅらす日の長さぁ〜♪」
という替え歌が歌い継がれていたのです。

えっ?
やっぱバスに乗せられて連れて来られるの?
都市伝説は本当だったんだ。と驚きました。(ちなみに精神病院救急車伝説は地域によって救急車の色が違う、という調査をし論文にした方がいるようです。)
実は就職する前に、恩師のゼミの先生に、本当にそこに行くのか?と心配されたほどですf^_^; なぜかと言うと、就職する年の前年にその病院は暴力事件で新聞沙汰になっていたからです(^-^;
勧めてくれたのはその恩師でしたが……(^_^;)

初めてそこに行き、病院内を案内された時、すぐにでも逃げ出したい衝動にかられたと言ったら、どれほどのものかなんとなくわかっていただけるだろうか?

精神病院というところ ② 収容施設としての病院
昔々の精神病院と言えば、10年、20年と長年に渡り入院生活を送る所ってのが当たり前で、多くの患者さんが長年に渡り入院生活をしていましたし、家族は「一生入院させて出さないでほしい」などと言ってましたし、電話をするだけで嫌がられていたものです。

当時の病室はベッドではなく、畳の部屋に布団を敷くってのが当たり前でした。
何故かというと、たくさんの患者さんを詰め込めるからです。

日本の精神病院というのは、昭和39年のライシャワー事件を機に、精神病患者を世の中に出しておくことまかりならぬという我が国の収容主義的精神医療行政のもと、国の補助をベースにあっというまに乱立されていったのよ。
そこに医療はなかったわけです。
少ない医師(しかも素人同然のようなのから、高齢で現役を引退した他科の医師とか)と、少ない看護師と、劣悪な環境で、なるべくたくさんの患者を収容・管理(外に出さないように)するのが精神病院の役割だったわけです。

話はそれますが、戦時中にたまたま外地で衛生兵をやってた人が、戦後一定の条件を満たすことで医師や看護師として医療に携わっていたの知ってる?
ま、そういう時代だったわけです。

さらに、「外科医は何も分からんからとりあえず切りたがる、内科医は何も出来ないくせにわかったふうなことを言いたがる、精神科医は何もできず何もわかっちゃいない」と揶揄されていました(^-^;

私が就職した精神病院は、当時、病床数が1200床という驚きの病床数を抱え、しかもいつも満床、いや過剰収容状態でした。
1病棟の病床数が100床を超え、たいていは医師1人が2つ〜3つの病棟を担当、看護スタッフは1病棟に6〜7人、二交替制で夜勤は1人だったのです。
容易に想像がつくかと思いますが、そんな状況で医療などできるはずがありません。そこにあるのはいわゆる恐怖政治による支配的管理です。

当時、精神病院のオーナーは牧畜業者と椰愉されていましたが、要するになるべくたくさんの患者さんを長期間に渡り抱え込んでいさえすれば、儲かったわけです。
そのために、患者狩りと呼ばれることもなされていました。ワゴン車で街に繰り出しホームレスのおじさん達に、「飯・風呂・寝床に小遣いつくで」と誘い、車に乗せ病院へ連れてきて入院させるわけです。医療費は病院から生活保護の申請をしていたわけです。
そして、長期入院の患者さんは固定資産などと呼ばれていたのも事実です。

1978年、私は就職先がなく、臨床心理士というカッコよさそうな職名に釣られ精神病院に就職したわけですが、実は私自身が臨床心理士ってのが何のことやらわからず、病院も一体何なのかほとんどわからないまま採用したわけです。
私が精神病院に就職した時は、精神病院開放化が声高に言われはじめていた時代でもありました。

精神病院というところ ③ 不自由というあたりまえ
皆さんは、精神病院にどんな印象をお持ちだろうか?
今から15年くらい前には、乱立時代に建てられた病院が老朽化のために建て替えられ、まるでホテルのようにきれいになっていきました(残念ながら公立病院は予算の問題で建て替えが遅れました)、
民間精神病院が人件費を30〜40%で抑えて経営をするなか(だからお医者さん以外のスタッフは、看護師といえ一般民間企業ベースよりも給料はずいぶん安かったのです)、公立病院は親方日の丸体質のなか、ひどいところは人件費率120%という大赤字のなか、さらに組合がベースアップや増員を要求し続け、仕事なんぞせずに組合活動に一生懸命になっている、なんてこともあったわけです。
今、彼らは高額の退職金と年金で悠々自適なんだよなぁ~、なんだかねぇ~。

そう、精神病院てのは、病院なのに5Kと言われ「暗い汚い臭いキツい危険」なところでした。
鉄格子に重い鉄の扉、当時は保護室と呼ばれた隔離室(クワイエットルームなんてオシャレな呼び方もある)、保護衣と呼ばれた拘束衣(羊たちの沈黙でレクター博士が着せられていたものだが、患者さんたちは柔道着と呼んでいた)と、拘束帯(いわゆる縛るための紐)などが、当時の精神病院を象徴するものですが、私はリアルに使ってきた世代です(看護師でもないのに・・・)
患者さんの拘束は日常的でした。
廊下のソファにはいつも拘束衣を着せられ、さらに手すりに縛り付けられた患者さんたちが数名いました。なかにはソファに縛り付けられる患者さんや、畳に縛り付けられる患者さんもいましたが、ソファを担いだまま、畳を担いだまま暴れる強者の患者さんもいました。

病室は夏は扇風機で汗だく、おまけに蚊に刺され放題、冬は練炭(朝練炭を起こし各部屋に配るのも仕事のひとつでした)だったが、餅を焼いたり鍋をかけてラーメン作ったりできて患者さんたちにはよかったのです。
テレビは1台、洗濯機が2台、これを約100名の患者さんで争う。
電話は今のように公衆電話もなく、自由に外と連絡を取ることはできませんでした。
タバコは患者さんによって本数制限されたり、箱ごと所持できる人がいたりしました。タバコの火は詰所内に一昔前の車に当たり前についていたシガーソケット方式のものが置いてあり、火をつけてもいい時間が一日数回決められていました。患者さんたちはついた火を絶やさずなるべく長持ちさせるようにタバコの火をリレーしていくということをしていました。
お風呂も1週間に1回、だいたい30〜40分の間に約100人が入浴を済ませなければならなかったのです。風呂に関しては入りたがらない患者さんも少なくなく、入浴日前になると体調が悪いといってなんとか入浴を回避しようという患者さんが増えました(^-^;
精神病院には認知症の高齢者や重度の知的障害の方々も入院していましたが、かれらはお世話に手間暇かかることから、暑くても寒くても入浴前に全裸のまま並ばされたりするというひどい話もあります。

入院する患者さんはパトカーや救急車で運ばれてくる方がたくさんいましたし、病院から屈強なスタッフが拘束衣や拘束帯を持参し、迎えに行くこともあたりまえにありました。
今では考えられないことですが、そんななかで患者さん達はどんな日常を送り、臨床心理士としての私がどんなことをしてきたのか、紹介していきます。

精神病院というところ ④ ダブルバインド
入院中の患者さん達は6時起床、21時消灯就寝でした。
朝食は7時〜7時半、昼食は11時〜11時半、夕飯が16時〜16時半だったと思います。
朝ご飯は、だいたいご飯にみそ汁に漬物、たまに卵や納豆がつく。
実は私、当時はほとんど三食を病院で済ませていたのですが、朝食のみそ汁は特別美味しかったですよ。
毎週水曜日のお昼は麺の日なんだけど、これはひどかったね。
日曜日の食事は給食スタッフも少なくなる(院内で自前で調理をしていました)のでひどかったね(>_<)
毎日朝は温かいお茶が配られるのですが、これも私たちの仕事でした。配る量がハンパないのです。たぶん一般の方々が見たこともないような巨大なやかんに、布袋に詰めた粉茶(これも私たちの仕事)を入れ、給湯室で沸騰したお湯を入れお茶を作る。この巨大やかんが6〜7コ分を配るのです。患者さん達は自前の小さなやかんを持っていて、それにお茶を配っていくのです。
夕飯後には何故かお湯を配るのです。なんのためにかといいますと、インスタントラーメンのためです。そうです、夕飯後はラーメンなのです。チキンラーメンを半分に割り、返還せずにとっておいた食器に入れお湯を・・・、そして分け合って食べるのです。一番人気は残ったスープでした。ここに残してとっておいたご飯を入れて食べるのです。
患者さんのなかにはおもしろい人がいまして、食事は一切食べないのに、残飯桶に溜まっている残飯を漁って食べる人、自分の食事は食べないのに隣の患者さんの食事を盗んで食べる人とかね(>_<)

実は、患者さん達には、掃除をはじめ様々な役割が当番制として与えられ、職員がきちんと遂行したかどうかをチェックするのです。
患者さんのなかには、職員にうまく取り入ってチェックを甘くしてもらおうとする人もいました。
後に少しずつ改善されていきますが、患者さんのスケジュールは、勤務する少ないスタッフの都合で決められていたわけです。
さらに、手が回らないところをてなづけた患者さんをうまく使うことで補っていたのが実態です。
その代表が部屋長制度です。各病室には刑務所の牢名主みたいな部屋長がいて、その部屋の全てを仕切っていたのです。部屋長は患者さんの信望から決められるのではなく、職員が管理するのに都合の良い人を選択して決めていました。
だから部屋長というのは特権階級だったわけで、他の患者さんには絶対ありえないようなことが許されていました。
そこに、部屋長に取り入ろうとする患者さんが出てくるわけで、精神病院というのはこのような支配構造のもとに成立していたのです。

そして、信じられないようなことがさも真実かのように伝えられていました。コーヒー、紅茶、チョコレート、辛めのお菓子は薬が効かなくなるから食べさせてはいけないとか、外の情報はむやみやたらに持ち込むと病状悪化につながるから極力外部情報を遮断しなくてはいけないとか・・・・
そう、人であることを放棄しないと、とても生き延びてはいけないところだったのです。

臨床心理士として就職した私が最初に釘をさされたことが、なんと「患者さんに話し掛けたり関わってはいけない」だったのですから驚きでした。
どうやら私たちが関わることで病状が悪化すると信じられていたのです。
というか、患者さんに人間性が戻ることを怖れられていたわけですね。
そんなことを言われながら、一方で診療報酬の大幅アップに貢献しろと要求され、つまり精神療法や心理検査を山ほどやれということですな。これは積極的に患者さんに関わらないといかんわけですな。
病院は矛盾したダブルバインドのメッセージを出すことで私達をたちの悪い支配下に置くつもりだったのでしょうか?
こういうやり方が操作的に使われていたわけですから、下手するとオウム(若い人は知らないかな?)なみにヤバイところだったわけです。
さて、私はどうやって生き延びていったのでしょう?

精神病院というところ ⑤ あるときは・・・またあるときは・・・
精神病院に臨床心理士として採用されたものの、当時(1978年)は、今のような資格も学会もなかったし、世の中の認知も皆無に近かった。そんなことを仕事にする人も極めて少なかったし、だいたい採用する側もされる側も何をどうしてったらいいのかさっぱりわからないのでした。
卒業1ヶ月前にまだ就職の決まらない私を見かねた恩師が、訳ありだが精神病院で心理士を募集しているがどうか?と言われ就職できるならどこでもと飛びついたのが臨床心理士としてのスタートでした。
臨床心理士という名前の響き、白衣を着て病院に勤務する・・・、よくわからないけれど、なんかカッコよくない? というノリで就職したのです。
ちなみに私卒業時に成績優秀につき学部長賞というのをいただきましたが、それがその後の人生に役に立つようなことは全くありませんでした(^-^;

病院にはすでにソーシャルワーカーが配置されていましたが、我々がそこに入ることで若干の波風が立ったり、ソーシャルワーカーと我々の職域区分が不明瞭で、他のスタッフや患者さんも混乱するところから始まったわけです。
実は、採用した病院の目論みは少ない医師や看護師の補填要因だったのよ。
医師や看護師を雇用するよりずっと安価で済むわけで、当時の初任給は9万円を切るくらいで、周囲の民間企業に就職した友人達の収入の6〜7割程度でした。
この差は、30年後病院を辞める際にはさらに開いていました。一部の特別な方を除いては、臨床心理士なんて職業は今でも非常に低い報酬なのです。
体よく臨床心理士という名前の「雑用係」として採用されたわけで、雑用係としての日々の私の仕事は・・・・・
患者さん同士の喧嘩の仲裁とか喧嘩の仲裁とか喧嘩の仲裁とか・・・でした。
気がつくと抑制という患者さんの拘束(拘束衣を着せたり、縛りつけたり、抑えるつけたり)がすっかり上手くなっていました。
あるときは看護補助、あるときはソーシャルワーカー、ある時は事務職、ある時は選挙の手伝い、ある時は葬儀の駐車場係、ある時は新聞の取材記者や編集者、ある時は運転手、ある時は七宝焼の講師、ある時はデモの要員、ある時は逃げた患者さんの捜索張り込み、またある時は手術や解剖の手伝いなど・・・・・でした。

さらに、精神病院てのはかつてたくさんの行事が開催されてました。運動会、盆踊り大会、キャンプ、文化祭という病院全体としての行事の他、各病棟ごとにバスレク、カラオケの他、季節ごとの様々な行事が開催され、まぁ、その度にお手伝い要員として駆り出されていました。
いやお手伝い要員ではなく、主体的に実施する役割を担わされていきました。

精神病院は病院と名のついた収容施設というのが実態でしたね。
とにかくなんでもやらされました。臨床心理士である前に病院の一職員なのだから、しのごの言わずに黙って働けってことでしたね。
とは言え、自分でも臨床心理士がなんなんだかよくわからず、精神病院のなかでどうしていいのかもわからなかったので、なんでもいいから必要とされるなら、役割があるならと、何でもやってきました。
そう、自分より先に臨床心理士として働いている先輩がいなかったのです。
今ならありえないことですが、決して恵まれているとは言えない状況のなかで、生き延びてこれたのは、環境が恵まれていなかったことと、周囲の苦労を共にしてきたスタッフに恵まれたからだと思っています。

実は私、白衣が嫌いで冬の寒い時の防寒対策くらいでしか白衣を着用しなかったのです。
で、職員は各自閉鎖病棟に出入りするための鍵を持っていました。この鍵は紛失すると大変なことになるわけです。
つまり、私は日々私服で閉鎖病棟に出入りしていたわけです。
すると、入院中の患者さんが不正に鍵を入手し、病院を脱走しようとしていると思われ、屈強な男性看護師数人に取り押さえられ騒動になるなんてことが、何故か一度ならず何度かありました(^-^;

一生懸命働いていましたよ。病院で働いているつもりでいましたが、実は入院させられてるんかな?なんてことをマジで考えちゃったりして、自分が職員なのか患者なのかわからなくなるなんてことも、しょっちゅうありましたf^_^;
勤務していたつもりで治療を受け続けてきたのかもしれません。
その割にいまだに良くなっていない・・・(^-^;

精神病院というところ ⑥ 夜勤
就職して間もない頃、ある事件が起こりまして、その事件をきっかけに、我々(事務、検査技師、薬剤師、ソーシャルワーカー、心理職の男子職員)が交替で、看護補助として病棟夜勤をすることになりました。
事件というのは、ある入院患者さんが、夜勤中の看護師を殴り倒して鍵を奪い病院から逃げ出そうとしたのです。
しかし、看護師は負傷しながらも、身を呈して阻止したのです。
そこは女子病棟で、当時は約100人の入院患者さんを、女性看護師1人の夜勤体制でみておりました。
そもそも精神病院というのは医師や看護師などの人員配置や、病棟や病室などの設備規準を何ひとつ満たしてなくてよかったのです。
医師も看護師も精神科領域なんぞ何一つしらなくても免許は取れたし、教育過程のなかに占める精神科領域はごくわずかだったのです。
つまり医療のなかで精神科領域はあってないようなものだったわけです。
だから一病棟に2割増しの患者を詰め込み、約100人の入院患者さんを、看護師1人の夜勤体制で対応することに当時は違法性もなかったわけです。
そういう無理な状況のなかで起こるべくして起こってしまった事件と言えるでしょう。
事件翌日の女子病棟夜勤から、男子職員がガードマンとして入ることになったわけですが、当初入っていた事務、薬剤師、検査技師は適当な言い訳を作って次第に抜けていき、最終的には、最強雑用係のソーシャルワーカーと心理職がずっと夜勤要因として残っていきました。
夜勤は日中普通に勤務して、そのまま夜勤へ、深夜仮眠時間はありますが、眠れるものではない。慣れてくると、不思議と自宅より良く眠れたりするようになったりしますf^_^;
夜勤仮眠中に夜勤をしている夢をみることもしばしばで、これはキツかったなぁ。
翌日は夜勤明けとして朝から帰宅していいのだが、いつも気づくとそのまま夕方まで普通に勤務したり、残業までしてましたね。
ゴールデンウィークや、盆、暮れ正月は毎日3食を病院で食べ、ほぼ連日の夜勤でしたし、若い頃はだいたい毎月5~6回の夜勤をこなしていました。
我々の夜勤は開始当初は一晩3000円からスタートでしたf^_^;

夜勤初日、病棟看護師長から、何もしなくてOKと言われたので、素直な私はマジで何もしなかったわけですが、後日看護師長から呼び出され、何もしないとは何事かと叱られ、何もしなくていいと言っておいて何を言ってるんだ!と怖いものなしのワシは相手が誰であろうが平気でくってかかっていました(>_<)
現場はダブルバインドメッセージにより混乱したわけで、こういうメッセージの出し方は最低だとまで、看護師長に文句を言っていました。
しかし、夜勤を共にする看護師さんにはなんの恨みもないので、まぁアレコレお手伝いをするわけですが、業務のなかでとりわけ重宝されたのが、ケンカの仲裁と、暴れる患者さんの抑制でしたねf^_^;
あ、いや、もっと重宝されたのが、看護師さんの愚痴聴き役でしたね(^_-)
昼間はわけのわからない雑用、夜は看護補助・・・・・、職名は臨床心理士、いったい私は何ものなのかどんどんわからなくなっていくのでした(-.-;)

精神病院というところ ⑦ 夏の終わりの怪談
ある夏の夜勤にて、
夜勤に入り、申し送りにてある患者さんの病状が悪く、今夜中に捨てるかもしれないとのことでした。
へ?
す・・・
捨てる?
どこへ?
患者さんを捨てるってどういうこと?
実は、患者さんが亡くなることを、ドイツ語でSterben(ステルベン)と言うのですが(日本語的には響きが良くない)、看護師さん達は、患者さんが亡くなることをSterbenを略してステると言っていたわけです。
つまり、今夜亡くなってしまうかもしれない患者さんがいるということだったわけです。
精神病院とはいえ、身体状況の悪い方や、高齢の方がおられて、様々な病気で残念ですが亡くなられる方がいるわけです。
結局、その日の深夜、その患者さんは亡くなられたのですが、患者さんが亡くなると、清拭やお化粧を含め死後処置をするわけですが、そのための道具一式をエンジェルセット(死後処置用詰め合わせセット)と言います。
私も死後処暑のお手伝いをしまして、ご遺体を安置室までお連れし、お線香をあげ、手を合わせた後
何事もなかったかのように夜勤の通常業務に戻るわけですな
で、その日の夜勤の看護師さんと詰め所で一息ついてると・・・・・
病棟の方から「かんごふさぁ〜ん」と呼ぶ声が
ん?
今誰か呼んでたよね!
うん、誰かな?
あ、僕みてきます!
と声のした病室へ向かう
あるお部屋の前を通り過ぎると
「かんごふさぁ〜ん」と
部屋をのぞくと
そこには、さっき安置室までお連れした患者さんが、使っていたベッドが
他の患者さんは皆寝息をたてている
そんなハズないよなぁと、言い聞かせ、部屋の前を通り過ぎると
また
「かんごふさぁ〜ん」
と確かに呼ぶ声が・・・・・
ビビりながらもう一度あの部屋をのぞくと
誰もいないハズのベッドの上に、白いかげが・・・・・
ま、まさか
まさかぁ〜
足がすくみ、頭がパニック(◎o◯;)
勇気をだして、もう一度どベッドを確認
誰もいない・・・・・
いるはずがない
隣のベッドの方が目を覚まし、西野さんどうしたの?って
あ、いやね・・・
あの、呼んだ?
と聞いてみたが
呼ばないよ、寝てたもん
起こしちゃってゴメンと言って詰め所へ戻り、看護師さんに話したら・・・・・
あぁ、やっぱりね
時々あるのよ、こういうこと、慣れるわよ・・・・・
だってさ(◎o◯;)
・・・でね、たまに病棟や診察室のお祓いをしたりもあったので、ちょっと怖かったですね。

精神病院というところ ⑧ 行事と居場所
精神病院では春の行楽、夏の盆踊り、秋の運動会に行楽、冬の文化祭、お正月の初詣、さらにキャンプやBBQが開催されていました。
いまどきは、病院は医療機関であり医療を提供する所で、福祉施設ではないからという理由で、こういった行事をやらなくなってきています。
実際は予算の問題や、手間隙の問題や、場所の問題などで、儲けにつながらないことは無駄なことなのでやらないわけです。

実は患者さんたちが元気になり良くなるために必要なことは、医療以外の一見無駄なところにたくさんあるのね。
中井久夫先生も外国のナンチャラ先生も、私が直接精神医学を学んだ大師匠の井上正吾先生も言うてましたが、環境整備が重要で、ここちよく過ごせる環境整備が大事やと・・・。
だから医療にかかっているだけでは良くなんかならないわけで、こういうことに気づかないかんのよ!

話はそれますが、精神病院入院患者さんたちの定番の楽しみがありましてね、最近はわかりませんが、かつては、午後のひと時を水戸黄門、大岡越前、遠山の金さん、銭形平次などの再放送を観て過ごす。他にも、大相撲、野球、歌番組、サスペンスなどが好まれていました。
一台のテレビのチャンネルを100人近い患者さんで争うわけですが、そこはね、患者さん同士の暗黙の力関係やルールがあって、あまり揉めることがないのですが、新しく入院したばかりの暗黙の・・・がわからない患者さんがいると、揉めてしまうことがあるわけですf^_^;

だいたいね、精神病院ってところは、実は精神科疾患のことをちゃんとはわかってないところなのに、わかっていると勘違いしているのよ。
実は精神科疾患を抱える方々の多くは、内科、外科、婦人科などの一般医療機関で治療を受けているんだね。
もちろん精神科の治療ではないし、医療スタッフは多くの困惑や混乱のなかで治療を提供しているわけです。
そういう現場では、たぶん精神科関連疾患であろう患者さんを、精神科をあらわすPsycho(サイコ)をもじり、暗に、ぷしこ、ぷう子、ぴぃ子、ぴぃちゃんなどと差別的に呼んでいました。
実は、一般医療現場で、ゴタゴタしながらの対応は案外悪くないのです。
こういう視点で考えていけば、日本も精神病院を手放す可能性が高くなるかもしれません。
高木俊介という精神科医は、京都を中心にACTと呼ばれる、精神科の在宅24時間支援システムを地域で構築し、入院ありきの精神科医療から脱却することの可能性を示しています。
将来、精神病院てものがなくなり、私がまだ元気に生きていたら、精神病院ってところに30年もいた(いつのまにか30年も入院していたことにスリ変わっている、笑)稀有な存在として講演活動にひっぱりだこになったりしないかなぁ?
いろいろ問題はあったけど、問題をなくしていったら(もちろん今でも問題はたくさんあるけど)、精神病院はなんだかつまんないところになってしまってるよね(-.-;)  それでいいのかもしれませんね。

精神病院というところ ⑨ 棲息する人々
その精神病院には何とも不思議で奇妙な人々が棲息していました。
今回の話はどこの精神病院にでもある話ではありませんので、誤解のないようにね。

まずは、人ではありませんが、病院なのに、ゴキブリが驚くほどいましたね。ラジカセを置いておくとラジカセ内がゴキブリでいっぱいになり、壊れてしまう。引き戸を引くと、戸のレール部分にビッシリと・・・・、それはおそろしい光景でした(;゜ω゜)σ
あとネズミ・・・、ゴキブリほどではありませんが、ちょくちょくお目にかかりましたね。
何故か、どこから入ってくるのか、よくコウモリが病棟内に迷い込んできていました。
それから、鳩・・・、患者さんが餌を与えてしまうため、すごい数の鳩がいて、定期的に駆除していました。
睡眠薬を溶かしたものにパンを浸し、鳩に与えると鳩はバタバタと落ちてきまして、それを集めてどこかに(どこかはしりませんが)運ぶのです( ̄▽ ̄;)
今なら動物愛護の観点から非難されることですね。

詳細は不明ですが、ヌードマウス、モルモット、ウサギ、犬、インコが飼われていました。インコは大きな鳥小屋に数十羽飼われていて、開放病棟に入院中の患者さんがお世話をしていました。
犬が数匹いましたが、声帯を切除されふつうに鳴けない犬でした。
犬は、ヌードマウス、モルモット、ウサギとともにお世話担当スタッフがお世話をしていましたが、一体何のために?だったのかは不明ですが、実験用動物として飼育されていたらしいのです。
お世話をしていたスタッフ数名は、かつての某国王族で、革命により亡命のようなかたちで病院オーナーに拾われたらしいのです。母国に帰ったら死刑にされるので帰れないという話も聞きました。
彼らは皆超優秀なうえに、とても謙虚で愉快な人々でした。
今は、彼らの一部は帰化して日本人として暮らし、一部はカナダ等他国にて暮らしています。
嘘みたいなホントの話です。

次がお医者さん・・・
診察室でずっとテレビを観ているお医者さん、大好きな番組が料理番組で、外来診察中に患者さんをほったらかしていなくなる。
どうしたのかと思うと、病棟か医局に料理番組を観に行ってしまうのだ。
ずっと耳にイヤホンをしているお医者さんがいまして、最初は耳が悪くて補聴器を使っているのだと思っていたら違ってました。
ラジオの短波放送をずっと聞いていたのです。何を聞いてたかというと株ですわ(-.-;)
詰所(ナースステーション)スタッフに、いただきもののお菓子等を腐らせたり、カビだらけにしてから皆で食べろと言ってくれる変なお医者さんや、咳止め薬を自分で大量に処方し、その咳止め薬を常用しているお医者さんもいましたね(>_<)
いつも診察室の机の引き出しの中にウイスキーのボトルを入れてあって、呑みながら診察をし、時折患者さんにもすすめていたお医者さんもいましたねf^_^;
私達が「白衣を着た患者さん」と呼んでいたお医者さんが何人もいて、入院中の患者さんよりもお世話や対応に困っていましたねf^_^;
まぁ、このてのお医者さんは今でも、どこにでもいるわけでして、なかなかやっかいな問題です。
もちろん医師だけではなく、様々なスタッフにも不思議な人はいたわけです。
さて、ここまでは序章ですf^_^;

いつも職員食堂の洗い場にいたAさん。
彼はいつもニコニコしながら箸で鼻をほり、おもむろに履いていた長靴を脱ぎ、その匂いを嗅ぐことを繰り返していました。
思わず目を奪われ、ガン見してしまうほどだった。
彼はどこで会ってもニコニコとして挨拶をしてくれたが、く、く、臭いのです。鼻が曲がるほど臭いのです。
彼が一体何者だったのか?
謎のままです??(゜Q。)??

病院内の設備修理等をする部署に所属していたBさんは、いつも病院内のどこかのペンキを塗っていた。その進行具合は超遅い。
一塗りしては休憩して・・・というペース、一体何のために塗っているのかも良くわからない?
ある時、帰り際に彼から声をかけられた・・・
「いい車に乗ってるね」と
私は、いやそんなことないですよ、中古の安物ですものと言ったのだが、彼は「中古でもいいものはちがうねぇ、ナショナルの車だろ」って真顔で言うじゃありませんか(◎o◯;)
ナ、ナショナルの車って?

法人(病院)理事長を○○くんと呼ぶ、誰よりも偉いCさん。
彼はかつて病院オーナー宅に、諸々お手伝いに行っていたことがあり、まだ子供だった理事長の面倒もみていたらしい。だから理事長も彼には頭が上がらなかったわけですな。

公安から目をつけられていたDさん
彼は昭和天皇時代に皇居へ出向き、母親(皇太后)に会わせろと言い、断られた腹いせに石を投げ、強制入院させられた人だ。
私が勤務していた病院に入院中は毎年里帰り(皇居へ出向く)していたが、警備の方々に上手に断られ、素直に帰院していた。
しかし、愛知県に皇族がやってくることになると何故か前持って公安から病院に連絡が入り、当日は外出させないでくれと御達示があったのです。

その他、ヤクザの親分や政治家が一時的に身を隠すために病院を使っていたり、なんてこともありました。

てな風に、かつて精神病院には不思議で愉快な方々が他にもたくさん棲息していたのです。

そうそう「猛獣使い」と呼ばれた人がいました。
精神病院時代の大先輩のPSWです。
誰もが扱いに手こずり、やっかい者扱いされるような、背中に入れ墨、手指を欠損している、一見恐ぁいおっさん達が…
まるで猫のようになついているのです。
何か特別な魔法でもあるのかと思って、観察をしていましたら…
媚びることもなければご機嫌をとることもなければ、脅したり恫喝したり裁いたり貶したり馬鹿にしたりすることが一切なく、いつでも対等なのです。
一方的に何かを押し付けることなく、患者さんの話をよく聴いていましたね。
その方の前では、混乱している患者さんたちも穏やかでした(*^^*)
患者さん達が深い信頼を寄せていることがよくわかりました。
・・・で、私達はその方をひそかに「猛獣使い」とか「魔法使い」と呼んでいたのです。
実はまだ私が就職する前に短い期間ですが、あの草間彌生を見出した精神科医西丸四方氏がいたことがあるのですが、その秘書のようなことをやっていたすごい先輩ソーシャルワーカーもいまして、翻訳のお手伝いなどもやっていたようです。

まだまだ、若僧だった私は、いつかその大先輩方のようになりたい、少しでも近づきたいと思っていましたが…
いまだに、ぜんぜんダメですね(((^^;)
人の話を聴くのがお仕事なのに、いつまで経っても人の話を聴けない臨床心理士です(´Д`)

精神病院というところ ⑩ 場外にて 
30年も精神病院にいると、精神病院の外でもいろいろな経験をするわけで、今回はそんなことを紹介していきます。

私が精神病院に入職したのは、40年以上も前で、まだ精神衛生法時代で、ロボトミーの名残が生々しく残っており、まだあたりまえに集団での電気ショック療法が実施されていました。一方で、やっと開放化に向けた動きが出はじめていた頃でもありました。
以前も書きましたが、当時は入院中の患者さんが外に出るなんてことは、まかりならぬ時代だったし、ほとほと困った身内は一生入れといて欲しいと言っていました。
そんななか、たまに、精神病院の閉鎖病棟に入院中の患者さんが逃走することがあるわけですが、もう大変でしたね。
職員総出で捜索です。近隣はもちろん、山狩りのような捜索活動に何度も駆り出されました。または、立ち寄ったり、戻って来るかもしれないような所に張り込みもしました。

張り込みと言えば、入院費等を払ってくれない家族の所へ行き、帰宅したところをつかまえ、払ってくれるよう交渉したりと、かつての金融屋の取り立てのようなこともさせられましたし、なかなか入院してくれない患者さんが自宅に戻るのを張り込んで待ち、帰宅したところを無理矢理つかまえ入院させるなんてこともありました。

近隣や家族や行政からの依頼で患者さんを連れに行ったり、見に行ったりもあったわけですが、部屋の中がうんちまみれ、ゲロまみれ、ゴミ屋敷でウジがわいてるし、患者さん自身がノミ、シラミをはじめ虫だらけも珍しくなかったですし、生きてるんだか死んでるんだかわかんなかったり、訪ねたらいきなり三階から飛び降りてしまった方もいました。

ちなみに、私、臨床心理士です(-.-;)

覚せい剤で錯乱し刃物を持って民家に立て篭もっているチンピラヤクザを、ヤクザ屋さんと行政と警察に混じって、入院を引き受ける病院スタッフとして現場に駆り出されたりもありましたね。

病院が少しずつ開放化されるにつれ、一部の患者さんが近隣のスーパーや喫茶店などで、飲酒トラブル、万引き、迷惑行為などをやらかしてくれたりすることが出てくるわけで、もう何度謝りにいったことか・・・・、その度に心ない罵声を浴びせられてくるわけです。
ひたすらひたすら頭を下げてくるしかありませんでした(>_<)

他のスタッフと一緒に、患者さん達を数名〜10名くらい連れて近くのスーパーに買い物に行った時のことです。長期に渡り精神科の薬を大量に飲んできている患者さんの大半はひどい便秘に悩まされ、日々大量の下剤も服用していたこともあり、間に合わなかったのです(>_<)
こともあろうに食品売り場で、うんち(水溶便)を漏らしてしまったのです(×o×)
スタッフは他の患者さんをコントロールする人、うんちを掃除する人、謝罪する人、そのうんちまみれの患者さんを病院まで連れ帰り他のスタッフにヘルプを求める人(当時は携帯電話なんぞありませんでした)のどれかを選択しなければならなかったのですが、私は看護師の先輩の指示にて、うんちまみれの患者さんをおぶって病院まで戻ることになったのです。
当然私もうんちまみれ、パニクっていたら、患者さんと一緒に洗い場に連れていかれ、ホースの水で洗車のように洗浄されました。

患者さんと1対1で、買い物や食事、映画、パチンコ、家探し、仕事探し、荷物取り、部屋の引き払い、引っ越し、諸手続き・・・・・、などなどありとあらゆることをしてきました。

時には、泥棒扱いされたり、覚せい剤関連犯罪の関係者と疑われたり、名刺を悪用されたりして、警察から取り調べられたり・・・・・、なんてこともありました。

私、臨床心理士ですけどなにか?
たぶん、こんな臨床心理士どこにもいないと思います( ̄▽ ̄;)
でも、自分のこのような経験を誇りに思っています。

かつて、精神科疾患を抱える方々に、精神科疾患はきれいサッパリなくなるように治ることは期待できないが、糖尿病のように通院服薬を継続することで、再発予防や悪化予防、などなどで日常生活をある程度支障なくしていける。だから通院服薬はちゃんと継続するんだよ・・・。
なんてことをお伝えしていたわけですが、ちゃんと治る見込みもないのに、長期にわたり通院服薬を継続していくことが、どれほど大変なことか、再発や悪化を予防し少しでも良くするためとはいえ、日常生活の工夫やコントロールがいかにできないか、ってことが全くわかってなかったなぁ。
もう、いいよ・・・ってなっちゃうもの(-.-;)
この治療というか通院服薬、生活改善へのモチベーションを長期にわたり維持継続するのは極めて困難なのです(>_<)
でね、ちゃんと服薬してても、あるところから良くはならないわけで、すると医療側は、良くならないのは患者の不摂生のせいだと、だから生活改善をしろとのたまうわけですが、生活改善がいかに難しいかをわかってるんかな?
とかく医療者は、実は不確かな医療を妄信し過ぎる傾向がある。(ワシも長年医療のなかにおりましたけどね)
にもかかわらず、どうにもならんと生活改善をしない患者が悪いと言い出す。

またまた話は変わりますが、私、定期的に巨大大学病院に通院していますが、何度来ても最悪だ。(主治医の先生には文句はないのよ)
歩いてる医師の歩き方や姿勢、身嗜み、話し方などなど、挙動不審なのが多過ぎる。(他人のこと言えないけどね)
大丈夫か?大丈夫じゃないよなぁ!
待ってる患者に一切の配慮はない、全てが医療者側の都合で進んでいく。
患者として客として大事にされてる感は皆無、待ってる間に具合が悪くなる。
弱っている患者がどれほどあなたがた医療者を気遣い我慢しているかは、わかっていないんだろうなぁ?そんなことはどうでもいいことなんだろうなぁ!
患者には何が何だかわからないことを、たぶんわかっているであろうことを前提に、あまりに簡便な説明や案内がされ、肝心なことは何の案内もされないので、余計に混乱してしまう。
つまり対応が全て上から目線で雑なのだ。
確認をしようとすると、あからさまに面倒臭そうな対応をされる。
医療の主体は基本的には患者だと思っていたんだけど、どうやら間違っているらしい。医療はね、医療側の自己満足や都合と金のためにあるんだってさ。
だから患者のいうことなんか何一つ聞いちゃいないし、頭から患者が間違ってるという前提でものを言う。
病院に行って具合が悪くなって帰ってくるって、どういうことよ( ̄▽ ̄;)

自分が患者になってわかる医療の傲慢さといったらひどいものだね。

精神病院というところ ⑪ そんなことがあるのか?
昭和40年代に、日本の精神病院ではロボトミー(前頭葉切除術)の手術がされていたので、精神病院には手術室というものがあり、私が就職した時には使ってはいなかったですが、手術室の名残がありました。ロボトミーの手術にはいくつかの方法があったようです。1970年代に行われたロボトミーを受けた患者さんや支援者による訴訟はことごとく病院側が敗訴しています。

私が就職したばかりの時には、巨大な単科の精神病院だったのですが後に内科、外科、眼科、耳鼻科、歯科、他を併設する病院となり、外部から専門の医師を招いていました。

一時期、外科には国内でも著名な医師を招き、若い看護スタッフも充実させ、難しい手術などもこなしていました。夜間の緊急手術などもしばしばありまして、実は私そういう時に召集され雑用などのお手伝いをしていたこともあります。手術が長時間に及んだ時に、手術で手の離せない医師の尿を看護師が尿瓶で取るなんてこともあり、それを受け取って捨てに行くというような雑用のお手伝いに重宝されていました(^-^;
手術後に皆で焼肉屋でお疲れ様会とかも驚きました。

何といってもこんな経験はまずできないだろうというのが、解剖のお手伝いでした。入院中の患者さんで亡くなられた患者さんの解剖(いわゆる病理解剖)をすることがありまして(どうしてそういうことができたのか詳細は不明です)、その度にお手伝い要員として駆り出されていました。解剖は手術と違ってその場に立ち合い、いろいろとお手伝いをさせていただきました。摘出した臓器を洗浄して標本のように保存するとか・・・

ちなみに私、臨床心理士ですがなにか?

精神病院というところ ⑫ 鍛錬・・・
新人として鍛えられたのは入院する患者さんのインテイク(予診)と精神衛生法の熟知でした。
外来当番(登板)日には入院患者さんのインテイクと入院手続きをするのですが、カルテを作ってお医者さんに回すとたくさん赤字を入れられて、取り直しや作り直しを命じられ、しかも短時間でやらないと次の手続に支障が出るわけですのでいつも半泣きでしたが、おかげで手際よく必要な情報を収集してまとめるということができるようになりました(^-^;
また、精神科の入院というのは精神衛生法(今は精神保健福祉法)による手続きや費用についての手続をとる必要があり、書類や役所との交渉などをやらなければいけなかったのです。そのためには精神衛生のみならず生活保護法をはじめ健康保険関連法などを熟知しておく必要があったのです。
頭の固い役所の方々とやりあうにはそれらを熟知しておかないといけなかったのです。手続きや書類関係で随分役所の方々とやりあったものです。
おかげで、歩く精神衛生法、後に歩く精神保健福祉法と呼ばれるようにもなりました(^-^;
今はすっかり忘れていますし、改定もされていますのであまりよくわかっていません(^-^;

外来も含め入院患者が1000人以上いる精神科の病院は、扱う書類も半端なく多いわけですが、精神衛生法(精神保健福祉法)関連の書類や、生活保護法関連の書類や、健康保険法関連の書類をはじめ実に雑多な書類が山ほどあるわけですが、まるで文書課のように、こられを作成管理するということもやってきました。

はい、私臨床心理士ですけど何か?

先にも述べましたが、病院からは稼ぎになることをやれとお達しがありまして、いうも心理検査や精神療法などをたくさんやれと言われていました。
そういう時だけ臨床心理士なんだから云々・・・と言われ、こんなに雑務がたくさんある中でこれ以上どうしろというのだと思っていました。
ある時、あまりにもうるさいので「やればいいんだろ!」と半ギレして、1日に120人の患者さんに会うということや、1日に100件の心理検査をする(所見も含め)という無茶なことをやっていた時期もありますが、ほとんど意味をなさない行為でしたね(^-^;

精神病院というところ ⑬ タバコという院内通貨
入院中の患者さんたちにとって貴重なものがタバコでした(いまはどこの病院も全面禁煙になっています)
開放病棟以外の患者さんは現金を持てなかったので、タバコやお菓子が院内通貨としての役割をもっていたのです。表向きは物の貸し借りなどは禁止されていましたが現実はそうはいかないわけで、患者さんたちは欲しいものを手に入れるためにタバコやお菓子と交換するのが常でした。交換レートは決まっておらず交渉次第でした。そのためタバコなんか吸わないのにタバコを持っている人もいました。
外出や外泊する患者さんは自分のものではなく他の患者さんに頼まれたものや、以前もらったお返しや他の患者さんのために様々なものを購入してきて、病院でいろいろなものと交換したりします。

通常、患者さんたちはお菓子やタバコや日用品などを家族からの差し入れや自分のお小遣いでまかないます。お小遣いは1ヶ月に2~3万円ほどを家族などから(生活保護の方は医療費以外にお小遣いも出されていました)入れていただきますが、患者さんたちはお小遣いの残高が少なくなるとわかりやすく病状が悪くなったりするのです。
患者さんの病状が悪くなる3大要因というのがありまして、お金と異性と自尊心絡みで多くの患者さんは具合が悪くなりますが、これは患者さんに限ったことではなく誰にもあてはまることですね。

面会や差し入れや外出外泊のできる患者さんばかりではありません。面会もなければ差し入れもなければ外出も外泊もできない患者さんも珍しくありません。お金も自由にならない患者さんもいました。家族からまるで懲罰のように扱われている患者さんもいて、見かねた職員がお菓子や日用品や衣類などを提供したりということもありました。

院内通貨としてのタバコは患者さん達の麻雀や花札などでも賭けられる代用通貨となっており、ちょくちょくもめごとにもなっていました。

入院する時は金よりタバコ・・・とも言われたりしていたのです。

精神病院というところ ⑭ 大いなる矛盾を抱えて
ご縁があって精神科医療というフィールドに身を置いてきましたが、その中で多くの一般の方々(精神科医療の携わる人々でさえ)の精神科疾患や精神障害への無理解や偏見に腹を立て心を痛めてきました。
しかし、休みの日に病院の公衆電話から自宅アパートに電話が入ったり(当時うっかり電話帳に掲載していた)、外泊中の患者さんがどうやって調べたのかはわからないが自宅を訪ねてきたり(当時はまだ携帯電話もなかった時代)、街に出ると退院した患者さんに出くわしお金やタバコをせびられたり、銀行や役所でそう状態の患者さんに大声で呼びかけられたり、ちょっとした事件に巻き込まれたり・・・てなことがあると「もう、かんべんしてくれよ」と思うし、嫌気がさしたり、腹が立ったりするわけです。
精神科医療に身を置くことで、もっと精神科疾患や障害への理解をと思いながら、一方でプライベートで患者さんに出くわしちょっと嫌なことがあると嫌悪する自分がいるわけで、私はずっとこの矛盾を抱えてきており「大いなる矛盾」と呼んできました。私たちは整合性を持って生きていくなんて不可能なんだと思います。たくさんの矛盾のなかで生きていかざるをえないのですね。私自身が矛盾でできているのです。

精神病院というところ ⑮ アル中さんよもやま話
今ではアルコール依存症(物質使用障害)と言いますが、昔は慢性アルコール中毒という診断名でした。そこに肝機能障害と精神病質(サイコパス)がセットで付けられていました。先に紹介しましたように私の居た病院は病床数1200床あったわけですが、そのうちの2割以上がアル中さん達でした。
ほじめて目にしたアル中さん達は背中に入れ墨、小指がない・・・ような人達ばかりで当時の私はただただ怯えていました。おまけに悪さばかりするこの人たちとはなるべく関わらないようにしようと思っていましたが、そうもいかず・・・、私の依存症人生はここから始まっていくのです(^-^;

彼らはよく外出や外泊の患者さんに頼んで酒を買わせ、病院の窓(鉄格子がはまっている)から紐(隠し持っていた)を垂らして吊り上げ、病室でこっそり(すぐばれる)酒盛りをしていました。
買い物に行くとジュースの紙パックにお酒を入れ替えて持ち込もうとしたり、ヘアトニックなどの化粧品の瓶にお酒を入れ替えて持ち込もうとしたり、雨が降った時に傘を入れる袋にお酒を入れてズボンの中にしのばせて持ち込もうとしたり、その努力と工夫といったら皆すごかったですね。
一晩保護室で過ごすことやしばらく外出禁止になることを厭わない人は、堂々と飲んで帰ってきていましたし、すごく酒臭い臭いをさせて耳まで真っ赤にして帰ってきても「飲んでない」と言い張っていました。
病院の出入り口周辺の生垣の中や、出入り口近辺のトイレの天井裏などにお酒を隠してあったりもしましたね。
アル中さん達の外出外泊のほとんどは、その理由がどうであれほとんどが飲むことが目的になっていましたし、飲むために退院するという人達もめずらしくなくいましたね。
退院したばかりの患者さんが近所の酒屋で飲酒し迷惑をかけ、病院から迎えに行き再入院になるとかもよくありました。
ベロベロに酔った状態で家族に連れられてきたがすきを見て逃げ出した人が、車と接触し転んだはずみに足を骨折、外科に入院中に車椅子で酒を飲みでかけ酔って転倒、手首を骨折なんて人もいました。

今はなきお酒の自販機(若い人は知らないでしょうね)の前でワンカップを抱えて座ったまま絶命していた人、2月のまだ寒い夜にお墓のお供えもののお酒を飲みそのまま凍死してしまった人、お部屋を訪ねたら汚物にまみれて絶命していた人、保護室で自死した人、酔ってわずか2センチほどの水量の側溝にハマり溺死してしまった人、酔って5階の自宅マンションから転落して亡くなった人・・・など残念な最期になってしまった人たちも数知れずでした。

そうそう  
刑事事件の半数以上がお酒絡み・・・
DVや虐待も高い割合でお酒絡み・・・
不登校児童生徒の家庭の2割~3割に親の飲酒問題があるよ。
飲酒が自殺リスクを高めるよ・・・
高校生の8割に飲酒経験があるよ。
他にも健康障害含め、いろいろとお酒絡みで問題がたくさんあるよ
てな具合に飲酒は、ほぼ何もいいことないよ。
百薬の長とか、適正飲酒とやらはただの酒好きの言い訳ね。
どこかの、超高齢者の健康法が毎日の晩酌・・・、なんて話を真に受けてはいけない。
アルコールは健康障害リスクの高い要因だよ。
他の乱用、依存症発症の誘因にもなっているよ。
判断力が低下し、衝動性が高まり、ろくなことにならないよ。
飲酒の正当性を主張するようになったら、お・し・ま・い、だよ。
自分の問題だけじゃなく、家族や周囲を巻き込み、傷つけていくよ。
アルコール性胎児症候群のリスクが高いよ。
脳萎縮、肝性脳症、コルサコフ症候群、アルコール性てんかんのリスクがあるよ。
今度飲んだら死ぬという状況でも、やめられないよ。
・・・他にもいっぱい、いいことはなにひとつないんだよ。
喫煙以上にハイリスクだよ。
うつ病などの精神科疾患を誘発するよ。
てな具合に、ろくなもんじゃないんだな
知ってた?

精神病院というところ ⑯ びっくり事件いろいろ
最近はあまり見聞きすることがありませんが、昔はいろいろびっくりするようなことがしばしばありました。

とある墓地で模造刀を所持していたところを保護され措置入院(強制入院)になった方と仲良くなり、措置解除され任意入院になってからですがよく一緒にいろいろなところに出かけました。
その方は身寄りがなく単身で生活保護で生活をしていましたが、入院が長引いたことによりアパートを解約しないといけなくなりました。
解約に伴い荷物の処分をしなければならず、一緒にアパートに出向いたときのことです。
玄関ドアを開けると、刃物が散乱していまして、ちょっとビビりつつ部屋の中に入ると、やはり刃物だらけでした。布団の下、枕の下、引き出しの中、テーブルの上・・・、ありとあらゆるところに刃物が置いてあるのです。
恐る恐る「これはどういうことなのか?」と尋ねましたら「いつどこで誰に襲われるかもしれないので、いつでも対応できるように・・・」とのことでした。
その方はいつも「誰かに襲われて殺されてしまうかもしれない」という恐怖感(妄想)を持って暮らしていたのです。そんな彼にとって刃物は単なる刃物でも凶器でもなく自身の命を守る唯一頼れる物だったのです。
大量の刃物を処分することについては「今は病院に居るし、そんなに怖くはない」ということでOKしてくれました。
その後、何度か入退院をくりかえしながら単身で生活保護を受給しながら暮らしていました。何度目かの再入院の際に自宅まで荷物を取りに一緒に出掛けた際、彼の部屋に大量の刃物はありませんでしたが・・・、お守りとして立派な模造刀が飾られていました。

入院患者さんの自宅に荷物を一緒に取りにいったり、片づけに行ったりすることはよくあることでした。
自宅壁のシミを聖徳太子がいるだろうととうとうと説明をしてくれる人、自宅キッチンの床下収納を開け電波が入ると頭にアルミホイルを巻き鍋をかぶってココに避難するんだと教えてくれたり、襖の中に現金をたくさん隠してあるのを「ホラっ」と見せてもらったり、自らを予言者だと信じて疑わない方の長年の研究資料というものを見せられ解説されたり、腹減ってるだろうと昼ご飯を作って食べさせてくれる人がいたり・・・、患者さんと関わるというのは病院の中だけではわからないことがたくさんあることと、患者さん達のびっくりするような暮らしを垣間見せてもらったりもありました。

昔の精神病院は建物の周囲の一部が塀で囲まれていましたが、ある患者さんがその塀に車で突っ込み、エアライフルを持って事務所受付に押し掛けるなんてことがあったり、どうやって持ち込んだかわかりませんが刃物を振りかざし詰所に籠城する患者さんがいたり、夜勤明け朝切腹をして「切っちゃった」といって詰所にやってきた患者さんがいたり、外来で診察待ちの患者さんが突然処置室のガラス棚をたたき割りガラス片で自身の首を切ってしまったり、雨の朝出勤すると玄関にびしょ濡れの患者さんが袖口から血を垂らして立っていたり、病棟内で割った牛乳瓶(昔は瓶牛乳でした)で喧嘩をする患者さんが二人とも血だらけになっていたり、夜勤明けに病院の喫茶店でコーヒーを飲んでいたら窓の外に上から落ちてくる患者さんを見てしまったり・・・なんてこともありました。

保護室入室中の患者さんが幻覚により皮膚から出てくる虫を除去するために自分の皮膚をむしり取って血だらけになっていたり、幻視の苦痛から自分で眼球を摘出してしまった患者さんもいましました。

すい臓がんの摘出手術をし、まだ点滴やバルーンやなんやらかんやらたくさん管がついている状態なのに、全部自分で引き抜き血だらけのまま近所の寿司屋に行った患者さんは、即緊急手術となりましたがその後元気に回復しました。

他にもたくさんびっくりするようなことがたくさんありました。

精神病院というところ ⑰ よろず修理屋さん
先にも紹介したように心理屋ですが月に3〜4回看護補助として病棟夜勤に入っていました。
病棟夜勤は普通に日勤をして、そのまま夜勤に入り翌朝までの勤務でした(仮眠はできました)夜勤明けは帰って休むわけですが、なんというか夜勤明けハイになっていましてそのまま1日勤務プラス残業をすることがほとんどでした、つまり仮眠はできるけどだいたい36時間勤務をしていたわけです(^_^;)

病棟夜勤で何をしていたかといいますと、看護補助ですので夜勤の看護師さんのお手伝い、つまり雑用全般ですね。

配膳修膳、投薬補助、お茶配り、保護室(隔離室)への移送や巡回、点呼、夜間巡回、トラブル対応や拘束、夜間の救急外来対応、他、いろいろ何でもかんでもでしたね(^_^;)

夜勤に限らず、日勤時もほぼほぼ今でいう生活支援や社会復帰支援のようなことをやっていまして、臨床心理士らしからぬ仕事ぶりでした。

病棟夜勤をしていると患者さん達がなんだかんだといろいろ言ってくるわけですが、看護師さんは嫌がっていましたね。
患者さんの話は聞かないでくれとも言われましたよ(^_^;)
まぁ、それもわからなくはないですけどね(^_^;)

……でね、患者さん達はなぜかいろいろ修理を頼みにきたりするわけですよ。
ラジカセ(若い人はラジカセなんて知らないかな?)が壊れたからみてくれ、と言われて見てみると中から大量のちっちゃいゴキブリが出てきてびっくりしたこともあります。
ラジカセの不調の修理は多かったですね。
次いで絡まったカセットテープを取り出したり、カセットテープの巻き直しとかも多かったね。

ベルトのサイズ直し、曲がったりゆるんだりレンズが外れた眼鏡の修理に、外れなくなって指に食い込んでしまっている指輪を外したり切ったり、時計の修理、ボタンつけから縫い物……などなど、それはそれはいろいろなものの修理を手がけてきました(^_^;)

たまに、ラジオから聴こえてくる自分への悪口を止めてくれとか、病棟内の洗濯機から聴こえる声(洗濯機の音ではありません)がうるさいから何とかしてくれ……なんてのもありました(^_^;)

……てな風に、遺憾なく何でも屋ぶりを発揮していたわけですが、なぜかあまり感謝されないし看護師さん達からは少々ウザがられていましたね(^_^;)

病棟内のテレビ(まだアナログでした)や洗濯機の修理やトイレの詰まりや様々な補修や営繕なども引き受けたり、時には看護師さんの私物の修理なども引き受けていたのになぁ(^_^;)

こんなふうに、よろず何でも修理屋さんのようなことをやっていたわけですが、実は患者さんのモノを修理する(直せないものもあります)というのは、その患者さん自身へのケアにもなるのです(^o^)

そして、当時の精神病院に入院していた患者さん達の多くが、家族や地域や社会だけでなく、医療からも疎まれ疎外され、必要なケアを受ける経験が稀薄だったのです。
患者さんからの「直してほしい」は患者さん自身のケアの要求だったのですね。

精神病院というところ ⑱ 自分が入院
実は自分が勤務していた病院、つまり精神病院に入院したことがあるのです。子どものころからお腹の弱かった私ですが、病院に勤務しだして数年後に激痛と言っていいほどの腹痛と激しい下痢に見舞われ、それがなかなか治らないという状態になりました。学生時代には武道やパワーリフティングなどでバッキバッキに鍛え上げた肉体はあっという間に体重が15キロも落ち、水を飲んでも腹痛と下痢に襲われるという状態になっていきました。
そんな状態で勤務を休んで3日目だった。自宅アパートでよれよれで寝ているところに病院から同僚たち数人がやってきたのです。私は見舞いに来てくれたものと思っていたのですが・・・、なんとそのまま病院に連れていかれたのです。はい、勤務先です、精神病院です。まさか自分が病院から迎えに来られて強制的に入院させられる羽目になるとは思いもしませんでしたが、ちょっとホッとしたのもありました。
精神病院に強制入院させられた臨床心理士なんてどこにもいないでしょうね(^-^;
正確には勤務していた精神病院ではありましたが、すでに単科の精神病院ではなく内科・外科・眼科・耳鼻科・歯科・他を併設しており、私は内科病棟に入院したのです。4人部屋で他にも入院患者さんがいました。

当時は付き添いさんという方々がいまして、泊まり込みで入院患者さんに付いて身の回りのお世話をしてくださっていたのです(もちろん有料です)。私には付き添いさんは付きませんでした。付添いさんは日系ブラジル人の方が多く、軽症の患者さんを3人持ちすると私の給料の3倍以上の収入になり、母国に仕送りしたり、半年くらい稼いでから帰国して家を建てたりできるほどのようでした。ちなみに当時ブラジルで人気のものが日本の家電品でした。

入院するとありとあらゆる検査をすることになります。胃カメラや大腸カメラに血液検査・・・、しかし検査上は異常なし。それでも私は毎日激痛でベッドの上をのたうち回り、下痢に苦しむ日々が続くのでした。胃腸薬や下痢止めなどは一切効かないのです。かなり強い痛み止めと精神安定剤漬けになっていました。ついた診断が過敏性大腸炎でした。入院して数日後には自分で自宅まで荷物を取りに行ったり風呂に入りに行ったりしていました。当時病室内の喫煙は禁じられていましたが、廊下などでの喫煙はOKだったのです。しかし同室の患者さんたちは病室内でタバコをすっているではありませんか。・・・てなことで私は勝手に喫煙OKと判断し病室内でもタバコを吸っていました(^-^; しかし、ある日の夜中、眠れなくてタバコを吸っているところに看護師さんの巡回があり、職員の分際で何たることかとひどく叱られてしまいました(^-^;

また、別な日の夜、看護師さんが「西野くん、〇〇さん見なかった?」と同室の入院患者さんの所在を聞いてくるのです。どうやら無断でどこかへ行ってしまい帰ってきていないらしいのです。詳しいことはわかりませんが、何故か夜間にもかかわらずその患者さんを探しに行くことになり、何故かわかりませんが入院患者であるはずの私は捜索にかり出され、夜間に近隣を捜索するはめになったのです。私入院中ですけど・・・。結局その患者さんは外で飲酒をし、帰りにくくなり近所の公園にいたところを発見され精神科病棟に移されてしまいました。

私の主治医の先生は内科医ですが精神科や心理学に興味関心を持っておられて、私のところに回診に来られると精神医学や心理学の話をたくさんしていき、私の病気にも興味をしめしておられました。そうそう、当時の胃カメラは今よりもずっとアナログで大変でした。先に手術や解剖のお手伝いのことを書きましたが、手術時の撮影などにも関わらせていただいておりました。実は私、胃カメラで2度ほどひどい目にあっております。昔はフィルムカメラを使っていたのですが、一度は「あ、フィルム入ってない」ということで「ちょっと待ってね・・・」って管入ったまま待たされたのが1回、もう一回は「あれ?あれ?カメラ壊れているよ、カメラ替えるから待っててね・・・」ってやつでした(>_<)

2週間で退院しましたが、後半は病室から仕事に行ってました。当時の生命保険の入院特約は15日以上入院していないとお金が出なかったのですが、私はどうしても退院したくて14日で退院したので1日足りず入院給付金をいただけませんでした。2週間の入院の間に私はすっかり薬物依存症になっていたのです。鎮痛剤の効きが悪くなっていましたし、歯科の麻酔が効かないというやっかいな状態になていました。痛くなったらどうしよう?下痢になったらどうしよう?に支配される生活となり鎮痛剤と安定剤の乱用をしていました。何食わぬ顔をして・・・(^-^; でも当時はソレが薬物乱用だとか依存症だという認識はまったくありませんでした。依存症という言葉もありませんでしたから・・・。腹痛と下痢はその後も長い間私を苦しめていきますが、長い年月をかけて少しずつ収まっていき鎮痛剤や安定剤も手放していくことができました。

あ、嘘です・・・、55歳の12月23日脳梗塞で死に損なうまではある鎮痛剤が手放せませんでした。それは中学生から抱えていたひどい頭痛のせいでした。いろいろな鎮痛剤の中から一番切れ味の良いものがボルタレン錠25mgでした。一般的には痛いときに1錠、一日2回まで服用なのですが(当時は飲み過ぎると胃に穴が開くと言われていました)、私は2錠から3錠を一日に何度も服用していたこともあります。痛くなってからでは薬が効きません。激痛によってひどい吐き気、全く動けなくなり、誰かが喋っているだけで痛みが増幅されるほどでした。これも検査上は異常なしでした。
ところが不思議なことに脳梗塞以来嘘のようにひどい激痛を伴う頭痛が鳴りを潜めてしまったのです。おかげでボルタレンとも縁が切れました(^-^;


精神病院勤務30年の希少な経験の一部を徒然なるままに紹介してみましたが、何の役にも立たないと思います。他にもたくさんありますがキリがないのでこのくらいで一区切りにしようと思います。





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