言語化するための「知」
全身状態が悪化して、たとえ積極的な関節運動や体位療法などが厳しくても、訪室する意味があると私は思っている。対象者の背景にもよるとは思うけど。
「危ないからもう入るのやめよ」と言われてしまった時、何も言えなかった、悔しかった。
対象者さんと関わり始めたのは1週間前。当初室内での活動は自立していたが、様々な合併症が重なって、ベッド上の生活となった。
「リハビリで今できることもないから午後の〇〇(私)さんにも言っておくって聞いてたけど、来て時間使ってやってくれるんだね」
「午前はそう言われただけで帰っちゃったから…」
「こんな状態になってもそばにいてくれて有難う、できることがなくてごめんね」
苦しくても表情は穏やかにこんな言葉をかけてくださった。そして最期まで自身の苦痛や今後の不安に関して私に話してくださった。
ある一定の時間確保して、苦痛緩和目的でのリラクゼーションを通して対象者さんに触れながらお話をする。たとえ会話が難しかったとしても、苦しくて仕方のない時間を1人で過ごす対象者さんにとっては、必要な時間じゃないか。リハビリだからこそ、ゆっくり対象者さんと向き合うことができるのではないか。
結果、私だけ介入を続けた。
他の患者さんの関係で介入する時間がなかったのかもしれないし、その療法士にとって目的はなかったかもしれない。
それでもこの対象者さんの背景や現状の思いを上手く説明できなかったかな〜、自分よ。
なんかいい感じにマネジメントできなかったかな。
言語化するだけの知識と、コミュニケーション力というか人柄みたいなのが足りない。
知を深めたい。
作業療法の〝センス〟と呼ばれるものを磨きたい。
*齋藤佑樹先生「技と知と思考」に刺激を受けて。
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