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臨床場面での違和感と後悔

先日、療法士の当事者研究に関するトークイベントを視聴した。自分自身の考えや繊細な心の動きを、的確な言葉で表現される先生方のトークはとても面白かった。印象的に残ったのは、自分の中の多様性は相手をどれだけ掘り下げて考えられるかに繋がるということ。視聴後、最近の臨床場面での違和感と後悔を思い出し、今言語化しなければという衝動に駆られたため、自分自身の感情に出来るだけ素直に記録することを試みようと思う。

Aさんは退院してから1週間も経たないうちに誤嚥性肺炎にて再入院となった。

前回入院時は早期退院となり3回程度しか介入できなかったが、その時と比較すると明らかに表情は硬く、発語が少なくなっていることは分かった。そしてAさんは離床に対して首を横に振るようになっていた。理由を尋ねても頷きの反応しか得られず〝呼吸苦があるから起きたくない〟〝全身倦怠感がある〟ことしか私は汲み取ることができなかった。血液データや理学所見からは合併症や肺炎増悪を予防するために、離床を進めていきたい時期であった。いつの間にかAさんに合併症リスクに関して毎回説明し、なんとか起きて頂くということの繰り返しになっていた。ある意味起きてもらう為の〝説得〟になっていたのかもしれない。

ある日、トイレ動作の酸素化評価をしていた時である。便座の前で立ち尽くすAさん。「入院してからズボンの上げ下げはご自身でやっていますか?」と声をかけると、Aさんは何も答えず自分でズボンを下げ始めた。用を足してAさんは便座から立ち上がると、真っ先に目の前のトイレ内の洗面台まで数歩歩き、手を洗い始めた。そんなAさんに私は「まだパンツとズボン上がっていないですよ」と声をかけてしまった。

「知ってる!」

語尾に!が付くくらい、Aさんは声を振り絞って言ったのだ。今思うと、入院中で一番大きな声だったかもしれない。

私は〝しまった〟と思った。この順序がAさんにとっての当たり前だったのかもしれないし、この時偶然真っ先に手を洗いたい理由があったのかもしれない。AさんにはAさんのペースがあって、私は急かしてしまったかもしれない。

前回の入院前までは身の回りのことは自立していたAさん。入院と同時に第三者にトイレ動作を見守られ、口出しされるなんてストレスのかかることだと考えれば容易に想像ができた。Aさんの思いを深く汲み取ることができず、結果的に私の価値観や医学的に正しいと思われることを押し付ける形になってしまっていた。

その時の私はというと、Aさんのリハビリは20分で終わらないと担当患者さん全員回ることができない状況であった。自分の心に余裕は無かった。〝対象者の主体性が大切だ〟〝日常的なことを考えることが難しい時期は様々な経験から内省を促せるよう考えて介入しよう〟と自分に言い聞かせてはいたものの、あっという間にAさんの転院は決まった。

肺炎は改善し酸素吸入は必要なくなったし、歩行の安定性も向上した。日常生活の介助量は減っていたし、責められることはないだろう。僅かな笑顔も見られるようになり、会話中に「家に帰りたい」と表出するようになった。同様の内容の発言をしていることが看護師さんのカルテ記載にも残されていた。

「いつになったら退院できる?」

最後のリハビリの日に担当PTさんがAさんから聞かれたそうだ。「明後日だよって言っておいた。ここを退院するってのは本当のことだし。」

〝家に帰られるのはいつなのか〟という意味でAさんは質問をしたんだとPTさんも理解していたはずだ。その発言で〝明後日家に帰られる〟と思わせてしまったかもしれない。Aさんの気持ちを踏みにじるような発言だと私は捉えたし、期待を裏切られた感覚で転院先でのリハビリが円滑に進まないかもしれない…という不安が頭をよぎった。

どうして起きたいと思わなくなったのか、なぜ家に帰りたいと思っているのか、最後までよく分からなかった。今振り返れば自分の問いかけ方の違いでAさんとの関係性は変わっていたんじゃないかとも思う。

自分の価値観の中でAさんの行動を見ていたこと、Aさんの思いや価値観を深く把握できなかったこと、そして担当PTさんとAさんの思いや配慮すべきことを共有できなかったことが今は1番悔しい。

なんとか言葉にできた。



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