見出し画像

久しぶりに作業について考えた夜。


作業療法のことについて少しだけ言葉にしておこうかな〜と思います。

というのも自分よりも若いOTの人といつもお世話になっている先生と言葉を交わす機会があったので。昨夜の出来事を頭の中の整理のために言葉に残します。

ここから先、作業の定義とか理論とかはひとまず置いておいての話なのでお手柔らかに。

意味のある作業って何でしょうね、という話です。



とても歩ける状況ではないのに「歩きたい」という対象者がいます。そういう場合の〝歩く〟って意味のある作業になりますか?

1人の研究発表について意見を伝え合っている中で、こんな内容の質問がありました。

OTはよく答えると思います。
歩くことそのものではなくて、歩いて何をするのか、したいのか。たとえ歩くことが難しくてもどうやってその意味のある作業にアプローチするか。

私はこのような類の話、何回か聞いた気がしますし、それはそうだと思います。

〝座る〟〝立つ〟〝歩く〟は意味のある作業か

じゃあ〝歩く〟そのものは意味のある作業とは言えないのですか?

と問われたら、私だったら意味のある作業にもなり得る可能性があると答えます。

〝手を動かす〟〝座る〟〝立つ〟〝歩く〟
それぞれが対象者にとって意味のある作業だと捉えられる場合も十分あると思います。それらについて「座りたい」「歩けるようになりたい」と自分の意思を表出しているのなら、意味のある作業に近つぐのではないかとも思います。

その先に何をするのか、したいのか考えていなくても、まだ考えられなくても、言葉で説明できるわけでなくても、ただただ自分で自分をコントロールできて安心する感覚。そこに嬉しさを伴う人もいれば、もどかしい気持ちになる人もいる。

私自身の臨床の肌感覚でしかありませんが、入院生活も人生の一部であって、リハビリテーションで行うような、ただ〝手を動かす〟〝座る〟〝立つ〟〝歩く〟ということも、今のその生活を構築する立派な意味のある作業ではないか?と思います。

もちろん対象者と一緒にその先の生活を見据えた意味のある作業の探索ができるよう、作業療法士は力を注ぐ必要があるとは思います。

現実と乖離していてもいい

現実と乖離している希望を訴える。
これはとても当たり前なことだし、寧ろ希望が表出できていることが素晴らしいと思っています。

現実と乖離していることを特別問題視することはないと思います。

急性期はこれまでの生活(入院前の生活)に最も近い時期だからこそ、対象者が大切にしている作業がクリアな状態で聞けるというのがメリットだという話。又聞きなのですが、本当にそうだよな〜〜〜と何度も頷きました。

だからこそ、本人の希望が受傷後の現実と乖離するのは当たり前だと思います。現実と乖離していて、この人は病識が低い、で終わらせてはいけないと思います。

なんで「歩きたい」と言っているのか。そこを深く知ろうとすることがこれまでの生活史の理解や、意味のある作業の探索に繋がると思うし、OTにできることだと思います。

最後に

絶対にこれ理論とかもっと勉強していたら理解を助けてくれるんだろうなと思います。自分は浅いことしか言えてないよな〜まだまだだな〜と思いますが、意味のある作業についての文献をちらっと読んだり、久しぶりに作業療法について考えたりする、いい機会になりました。
作業についてもっと学ばなければ。




この記事が参加している募集

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?