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鋼の錬金術師から考えること

鋼の錬金術師は気がついたら、大好きになっていた作品である。小学生の頃、姉が家でアニメを見ていたのがきっかけだった。最後まで漫画を読んだのは高校生の時。何回も読み返しているが、未だに理解できた気がしない。それでもハガレンは人生だな〜と言うぐらい生き方や考え方を教えてくれる存在だ。

幼い頃から錬金術の才能があったエドとアル。亡くなった母を取り戻すために、人体錬成という錬金術の禁忌を犯した。代償として、兄のエドは右手と左足を、弟のアルは身体全てを(アルの魂はエドによって鎧に定着させた)失う。失った身体を取り戻す為に賢者の石を求めて旅をすると、ホムンクルスという人造人間の存在や、国家規模の闇に立ち向かうこととなる、と言う話だ。

「一は全、全は一」

無人島修行にて「一は全、全は一」の答えとしてエドとアルは「全は世界」「一はオレ」と回答し、正解している。

宇宙からしたら自分はほんの僅かな存在。でもそんな僅かな存在があるから宇宙は成り立っている。

目には見えない大きな流れが存在していて、それが果たして世界なのか、宇宙なのかも分からないけど、自分は大きな流れの中の一部。自分は全の中の一に過ぎない、でも一がないと全は成り立たない。

だからこそ真理の扉の前にいる不明な存在は、世界であり、宇宙であり、神であり、全であり、一であって「オレはお前」なのだ。

鋼の錬金術師と作業療法

私は学生時代、最後の試合の前日に体育の授業で骨折をした経験がある。すぐ考えたのは「なんで私なの?なんでこのタイミングなの?なんか悪いことした?」ということ。対価以上の何かを求めて、思い上がらないように絶望を与えられた、とは違うし、その時はただ理不尽だと思った。

普段の関わらせて頂いている対象者のことを考えると、論理的に説明できない境遇に「なんで自分なの?」と一度は思うことがあるだろう。その疾患を背負うのが、自分でなければならなかった理由なんてきっとどこにもない。最近対象者の方が涙する場面が多く、このようなことを考えるようになった。

私は臨床に出るまで目の前の人に興味が持てるか不安だった。今でも目の前の対象者のことを知ろうと努力しているかどうか、自分を疑うこともある。

「一は全、全は一」から考えると、極論、あなたは私で私はあなたである。弱い人間だからこそ、叩かれてもへこたれても道をはずれても倒れそうになっても、綺麗事だとわかってても何度でも立ち向かう、周りが立ち上がらせてくれることは可能なはずだ。(エドのエンヴィーに対する台詞より部分引用)

今私が介入している十何人の〝一〟に興味を持って関わらせて頂く理由は、人間なりの感情を持った方法で、自分らしさを大切にできる世界〝全〟を形作るためでもいいかなと思う。(かなり壮大な理由になるが。)もちろん作業療法士である以上、対象者に興味を待って関わらせて頂く責任もあると思う。

最後に

この漫画では、等価交換は錬金術における法則であるだけでなく、人生ともリンクしている。何かを犠牲にしているならば、その分何かを得ても良いはずだ。

対象者の〝何かを得る〟過程にOT が携われたら、貢献できたら、そんな素敵なことはないんじゃないかな。綺麗事かな?まぁ人間だから綺麗事でもいいよね。

痛みを伴わない教訓には意義がない
人は何かの犠牲なしに何も得ることはできないのだから
しかしそれを乗り越え自分のものにした時
人は何にも代えがたい鋼の心を手に入れるだろう                               (鋼の錬金術師より引用)




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