社会と教育と仕事について
人間が幸せを感じることは、全てお金と結びついているわけじゃない。
その典型例が子育てである。
こんなしんどいこと好き好んで誰がするのかということを人間は進んでしたりする。生命の理だからだ。
・仕事=お金を稼ぐことだと思っている人々
SNS内で「子育てを仕事だと思ってるのか?けしからん!」といった文言を見た。
わたしは違和感を覚えた。仕事とは、本人が片付ける必要のあること全般なのだ。
例えば書類を役所へ期限までに提出しに行くこと。
食器を洗って片付けること。YouTubeの動画をつくること。
別にお金にならないことだって含まれる。
はたと気づいた。そうかこの人は「したくないことをするのが仕事だと思ってるんだ」。
たしかに好きなことばかりが仕事でもない。でも生活のためにお金のためにと、自分の仕事を「嫌なこと」で埋め尽くしてしまう人がいて、またその逆もいるとなると、人がそれぞれ口にする「仕事」の意味合いが全く違ってくる。
きっと前述の人は「嫌なことで埋め尽くされた仕事」でお金を稼ぎ、生活をしているのだと思われる。
だから、子育てはわたしの仕事だと書いた人に対して攻撃的になったのだ。
・賃金が低い社会
この20年、日本は低迷している。社会全体でお金に余裕がない人が増えた。
いくら働いても楽になれない。お金に余裕が無くなった人たちは「お金を稼ぐこと」に焦点を合わせ始める。お金が意識を占領するのだ。
そうなってしまったこの社会で「お金にならないこと」が軽視されたり、あるいは「贅沢だ」と言われてしまうようになるのはむしろ当たり前ではないか。
・
お金を稼ぐために無理をして働く人々。その中にも、社会の役に立つために今の仕事を選んだという人たちもいるはずだ。
しかしそんな人も疲れ切って優しさを忘れてしまうほど「働かされている」。
人々が無理なく社会貢献に携わることができるようにするには?
・椅子取りゲーム
日本ではこどもの間に学校へ行き成績を上げれば希望の大学に入れて卒業後の就職まで辿り着けるルートがあるが
不思議に思うのが、勉強ができて晴れて卒業となった人でも必ずしも働くことに向いていると限らないのに、それが人を選ぶ基準となっている点。
それに、学校にいる期間に既に競争にさらされ、その中で「好きなこと」に集中する時間も奪われていたこどもが、そのまま大人になって自分の好きなことを仕事にできるだろうか?
・全然止まってくれないベルトコンベア
学校にいた頃、よく感じていたことは「大人は全く自分をみてくれない」ということ。
わたしが面白いと感じるものは授業の日程にながされチャイムに打ち切られた。
もっと楽しいことに触れていたいのに早く違う教科の準備をしろと言う。
家に帰れば宿題だらけで好きなことができない。
学校の先生も母親も「社会の決まり」をわたしたちに押し付けるばかりで、わたしの気持ちを尊重してくれる人は一人としていなかった。学校へ行きたくないと言っても、何がしんどいのか、何が嫌なのかを聞いてくれた大人は一人もいなかった。
それでも母親や先生たちが悪いとは思わなかった。彼らも社会の被害者なのだから。
・変化を嫌う日本
上の言うとおりに動くこどもばかりが学校で評価され社会の高い位置につける。そうして社会をけん引する立場に「大人に逆らったことがない人」が集まれば、その社会に変化が起きることは望み薄だろう。
こども一人ひとりの気持ちを全く尊重しない教育を続けて社会が停滞するのは当然では。自分のしたいことも分からないまま大人になって幸福な人生を歩めるのか。
以前、北欧の教育について知ることができた。一番大事なのは目の前にいる一人ひとりの子どもの気持ちを尊重することなのだと。
そのためにも先ずは子どもに関わる大人に余裕がないとだめだ。
・心の余裕はどこから生まれるか
これも続けて考えたい題材だがここまでで一度切り上げて更新とする。
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