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本嫌いから本好きになったよ。

どうもこんばんは、毎朝読書をするのが日課の僕です(そのために早起きしています)。

さて、今日は本の話をしてみたいと思います。
そもそも僕は本(漫画を除く)が嫌いでした。文字の羅列を見るとすぐに本を閉じてしまいたくなるほどでした。
それでも読書感想文などではなんとか読み切って原稿用紙に感想を書いていました。
それで思い出すのはヘルマン・ヘッセの「車輪の下」を中学生の頃、夏休みに読んでいたことです。
他に何の本を読んでいたかはもうすっかり忘れてしまいましたが、この本を読んでいたことだけはなぜか記憶に残っています(内容はほぼ覚えていませんが)。
そんな、本とは縁遠い生活を送っていた僕ですが、大学生になってから小説にハマることになります。
その頃は村上春樹、吉田修一、古川日出男などが好きでよく読んでいました。その他にも、レイモンド・チャンドラー、フランツ・カフカ、ミヒャエル・エンデも好きでした。

それからまた時間は流れ、星野道夫の本に出会い、「旅をする木」というエッセイが大好きになりました。
この本の裏表紙を見ると1999年に出版されたもので、すでに20年が経過しています。
でも名著というのはその中の言葉たちが色褪せずに輝いてそこに存在しています。
だから「読み継がれていく」本というものが存在するのでしょう。

今朝、久しぶりに読み返したこのエッセイに書いてあった言葉が心に刺さったので紹介したいと思います。

「私たちは、千年後の地球や人類に責任をもてと言われても困ってしまいます。言葉の上では美しいけれど、現実として、やはり遠過ぎるのです。けれどもこうは思います。千年後は無理かもしれないが、百年、二百年後の世界には責任があるのではないか。つまり、正しい答はわからないけれど、その時代の中で、より良い方向を出してゆく責任はあるのではないかということです。」

どうでしょうか?響きましたか?響きませんよね笑

僕はおそらく「正しい答」を探しすぎていたのかもしれないのです。だからこの言葉に救われた感があります。
国語や算数の問題は人が生きるうえでの問題とはその種類が異なります。
だから一つの正しい答なんて元々無くて、僕らが探し出すのはその方向なのです。
デカルトも同じようなことを「方法序説」の中で書いていました。
悩んでいる状態は森を彷徨っているようなもので、森を抜け出すにはどこか方向を決めて進むしか無いというような内容でした。

こんな風に本は僕らに道を示してくれたり、教えを与えてくれたりします。
もちろん娯楽として楽しむというのもありだと思います。人それぞれ本との向き合い方は違っていいですからね。
僕はこれからも読書は継続していきます。たまに難解な本を読むと途中で本を静かに閉じて、窓の外の景色を眺めて現実に戻ります。
そして、「それでいいじゃないか」と自分に伝えてあげます。無理して読むのではなく、自分に合うものを読むというスタイルでいいと思います。
もし本が苦手だという人でもジャンルや著者なんかによって読みやすい、おもしろいと思えるものに出会えることがあります。
尊敬する人、友人、インスタで見つけたおもしろそうな本、そんなところから選んでみるのも一つの手です。
まずは一歩踏み出してみましょう。
ではまた。

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