◇6 躁と鬱は別人格?
さいきん、私が鬱だった時のことを知ってる人に会いました。
会う約束をすっぽかし、連絡を絶って逃げていたのです。
「びっくりしたよ~。どうして連絡とれなくなっちゃったの?」
とさらっと言われました。
「どうして?」って私が聞きたい、と思いました。
深く鬱に入り込んでいたあのときのこと、あんまり覚えていないからです。
もっと言えば、「あれは、自分じゃなかった!」と思っているのです。
端的にいえば、「躁の時と鬱の時は、記憶するしくみが違う」のです。坂口恭平さんの『躁鬱大学』に似たような記述があったように思います。
私のなかでは、人生が2軸で進んでいます。
「躁の人生」と「鬱の人生」です。
「躁の人生」は、自分が軽躁状態だったときの記憶だけで構成されています。
留学の前半、診断がついてからしばらくして大学に普通に通えるようになった時期、就労移行支援で安定して通所できていた時期・・・
楽しいこと、うまくいったことばかり。オレンジ色の思い出で満ちあふれた人生です。
逆に、「鬱の人生」は、鬱状態だったときの記憶だけで構成されています。
留学後半、発症した直後の1年間、新卒で就職に失敗したとき、2回目の就職に失敗したとき・・・
「なんにもうまくいかないから、死んでしまいたい。」
そういう、ブルーな感情で満たされています。
「躁の人生」を歩んでいるときは、躁の時のことしか思い出せなくなります。
あのときうまくいったから、次も大丈夫!
ポジティブな感情が、自分を前に動かします。
鬱の時のつらかった記憶は、ぼんやりある。
でも、「うーん、なんか信じられんなあ。」みたいな感じになります。
「死にたい」気持ちとか、全く理解できなくなるのです。
「鬱の人生」のときは、軽躁の自分のことが信じられなくなります。
「調子乗りすぎ!バカじゃないの!」と思います。
ネガティブな感情の渦に閉じ込められて、どうあがいても出られなくなってしまいます。
そんな風に自己というものがすこし分裂していると、自分のなかで喧嘩が起こってきます。
「躁」と「鬱」の間にはちょっとした記憶の断絶があるから、ひと続きの自己像が持てなくなるのです。
例えば、深い鬱におちいって出勤できなくなり、仕事を辞めたとします。
やがて鬱が明け、気持ちの良い躁がやってきます。
そのとき、こう思うのです。
なんで鬱のときの責任、私が取らなきゃいけないの?
軽躁が続いて、誇大妄想が生じ、「あの人は私のことが好きに違いない!」と思い込んで告白をして、あっけなく散ったとします。
やがて躁は終わり、暗い鬱がやってきます。
そのとき、こう思うのです。
なんで躁のときの責任、私がとらなきゃいけないの?
自分の中でふたりの自分が喧嘩し始めると、頭がぐちゃぐちゃしてきます。
同じ身体のなかの違う部分が、ナイフで傷つけあっている感じです。
けっこう、しんどいです。
「フラット」って、いったい、どこにあるんだろうか?
ちょっと躁よりな台風前の晴れの日、考えたことでした。
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