他人事じゃないから、他人事にしてしまいたい。
昨日、とあるドキュメンタリー番組を観てしまった。
そう、観たのではなく、観てしまったのだ。
それは、否応なく車中生活している人たちを取材したドキュメンタリーだった。
日本各地に、車中泊しながら、暮らしている人たちが多くいるそうだ。
帰る家がなかったり。
帰る意味を失っていたり。
もしくは、生きる意味を失っていたり。
車中泊しながら、生きている人たちの姿に、
私は全然他人事じゃないと思いながら、見いってしまっていた。
明日は、我が身かもしれない。
と考えながら、
私は、昔、仕事をなんとなく辞めてしまったものの、次の仕事がなかなか見つからず、家にも居づらくなってしまって、目的もなく車に乗っていた時の、なんとも言えない絶望感と虚無感を思い出してしまっていた。
焦りさえも感じられないほどの虚無感は、
「意味」をむさぼるように求めていたっけ。
結局、「意味」なんてないのだと、思えるようになったのは、毎日の行き先を見つけてからだった。
だから、昨日の見た人たちは、他人事じゃなかったのだ。
でも、他人事じゃなかったからこそ、他人事にしてしまいたくなってしまった。
なぜなら、怖くなってしまうから。
本人が求めようが、求めていまいが、必要な支援からもれてしまった人たち。
私は、他人事にしてしまいたいと思いながら、なんとかならないのだろうかと、無責任にも考えていた。
なんとかが、何かも思い付かないくせに。
一丁前に考えてしまっていた。
答えはもちろん出ていないけれど、
困っている人たちに、必死に手を差しのべようとする人たちを見て、私は一筋の確かな光を感じ、その光の線が、薄暗い車内に差し込んでいくことを願わざるを得なかったのだ。
どうか、その光が、虚無感や絶望感を打ち消し、希望へと変わりますように。
そして、手を差しのべる人たちが手を差しのべつづけられますように。
他人事じゃないと言いながらも、結局は他人事にしている私は、実に卑怯だ。
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