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GomiZero.ART |『十八歳・等身大のフィロソフィー』

「自分で編集した昔の本でしたら、いま手元にあります」と表紙のお写真をお寄せくださったのは、さいたま市在住、新潟県上越市でNPO活動をされている、石塚正英さんです。

石塚さん
『十八歳・等身大のフィロソフィー』は私の文章だけでなく、1990年代中頃の多くの河合塾予備校生の小論文が入った文集です。むろん、本にする許可を得てあるものです。

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ちよ子
ありがとうございます。
石塚さんは、まわしよみ新聞の講師・湯本さん(新潟県長岡市)からご紹介いただきました。

新潟県上越市でNPO法人頸城野郷土資料室、感性文化研究室を主催されている、社会哲学者であり、地域文化のフィールドワーカーで、東京電機大学名誉教授です。

5月に石塚さんが主催のリモートカレッジ講座「ミケランジェロの大理石」に参加し、「そこに目を付けて、そう考えるか!」と驚きの連続でした。
8月、わたしが参加している、オンライン伊丹坂読書会に石塚さんも参加され再会。GomiZero.ARTのお話をしたところ、このお写真をいただいた次第です。

ちよ子
目次をお寄せいただきましたが、目次だけでも面白いです!
18歳、等身大の哲学…。石塚さんが書いた文章は、どちらでしょうか?

石塚さん
私が書いた箇所は「プロローグ」「エピローグ」です。
そのほか、私の授業に臨んでいた予備校生の書いた個々の小論文(全部ではありませんが)にコメントを書き込んでいます。彼ら・彼女らの大半は大学に進学したわけで、以後一度も会っていない人が大半です。それだけに、この文集はタイムカプセルのようです。
プロローグの一部を引用します。

引用
プロローグ
 いったい、「知を愛する」というのは、どんなことを意味するのだろうか。アルビン・トフラーが言うような、民主的な力の源としての知識を大切にすることか。武力や財力とちがって知識は弱者も貧者も持てる、だから知を愛せよ、となるのだろうか。そうかもしれない。けれども私は、17・18歳の若者たちに対して、「知」のことでそのようなアドヴァイスをしたいとは思わない。それよりは、何の役にも立たないような事柄、だれにも見向きもされないような事象に対する好奇心から出てくる知を愛するよう、すすめている。意味のあるものに熱中するよりも、意味のないものに没頭するよう、すすめている。
 「そんなことやって、いったいどんな意味があるんだい?」という大人びた質問ほど、煩わしいものはない。もしそんな質問を受けたなら、「ほんの、たわむれさ」と、こどもじみた返答をしておけば、それでいい。そう、こどもだ。あそびを得意とするこどもこそ、「知を愛する」ことのできる存在なのだ。なにか逆説めいてアイロニカルに響くのだけれど、あそびの人(ホモ・ルーデンス)こそ知の人(ホモ・サピエンス)なのだ。このパラドックスをつかみとること、それが人間の、人間たる条件なのではなかろうか。「あそび」は、いろんな人為的秩序の敵である。それは、外的統制を嫌い、自然的・内的秩序あるいはボーン・フリーを好む。」引用ここまで

ちよ子
すごーい!「ほんの、たわむれさ」皆さん、今度から、”うざい”大人(あなたの貴重な時間を奪い、やる気を削ごうとする大人)には、こう言いましょう!

この小論文を編集されていた時代は、どんな感じでしたか?
また石塚さんは、何に興味を持ち、何を一所懸命、学ばれてましたか?

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石塚さん
当時の世相は、平成時代の不安定な社会経済に影響されて、大人たちはみなが個人的な価値を持ち、こじんまりとした目標を追い求めていたような気がします。

1990年代、私は一方で東京電機大学の講師をしていて、他方で予備校河合塾の講師をしていました。そのころ、フェティシズム、つまり価値転倒の哲学思想に関心があり、白雪姫物語を必死に追いかけていました。1995年に『白雪姫とフェティシュ信仰』(理想社)を刊行しました。

ちよ子
フェティシズム、「価値転倒の哲学思想」ですか!
もう「白雪姫」だけでも、何時間も語れそうですね!!!
ここでは割愛します。皆さん、ぜひ、石塚さんの御本をお読みください。

さて、この本、今の18歳の人たちに読んでもらいたいです。
もしかしたら、あまり変わらないかもしれない?!
今の大学生たちと実際に接してきて、どう感じますか?

石塚さん
私の教室にきた子どもたちというかハイティーンは、アドベンチャーとロマンティシズムを併せ持っていました。今の大学生は理詰めで生きようとする傾向が強いので、つまんないです。コロナ禍は理詰めの傾向をいっそう助長している気がします。

ちよ子
理詰めですか…。理屈は若い彼らを守ってくれるものなのでしょうかね。
石塚さんが上越で過ごした学生時代、影響が大きかったことは何ですか?

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石塚さん
1965年3月、中学卒業の春、私は同学年の友人とともに、長野県北部の野尻湖でナウマン象の化石骨を発掘する作業に参加しました。この発掘は、大学の研究者のほか小中高の教師や生徒が参加して行われたのでした。
いま振り返れば、この発掘は私にとって重要な体験となったのです。
その時に受けた素晴らしい印象に裏打ちされて、私はのちに地中海での民俗フィールドワーカーになっていくのです。

ちよ子
野尻湖で化石発掘ですか、面白そう!民俗フィールドワーカーになっていくお話しもお聞きしたいですが、またの機会に聞かせてください。この小論文の裏表紙に石塚さんのお写真とお言葉があります!

美は乱調にあり――この言葉から何を想像するか、何を実感するか、しばし佇んでほしい。それから小論文の天路歴程が始まる。いっきに翔けよ!

この文、とても素敵です!
佇むなんて、今の時代、その言葉が吹き飛ぶくらい一分一秒忙しなく情報が流れてくる時代です。小論文を書く時、大きな考え方があるかと思いますが、如何でしょうか?

石塚さん
佇む――それは例えばこんな生活でしょうね。
私は勉強がしたいあまりに、すすめられる大学院進学をいったんは拒否したことがある。
大学卒業後しばらく、労働の現場に身をおいたおかげで、好きな本を好きなだけ読みふけり、書きたい文を好きなだけ綴ることができた。
「ためにする学問」とは縁のない学問、これを、あるときはおおっぴらに、またあるときはひそかに続けてきている。そして今は、とりわけ「フェティシズム」という概念とその思想史的展開を探求することに全力を傾けている。
「そんなことやって、何になるの?」と問われると、敢えて返答する言葉は浮かばないのだけれど、黙っていても相手に失礼だから、こう言う、「フェティシュが気にいっているからさ」と。

ちよ子
「フェティシュが気にいっているからさ」
ここまで開き直られると、聞いてて面白そうです!
石塚さんには、いろいろ訊きたいことが山ほどあるのですが、最後の質問です。
石塚さんがご自身でFacebookで「アラウンド古希」略してアラコキと書かれてました。アラコキの石塚さんから、18歳の当時の自分に向かって、何て言ってあげたいですか?

石塚さん
私は18歳の時から毎日のように日記をつけてきました。
18歳の私と言えるかわかりませんが、ときに昔の日記を読んで、そこにあらたな書き込みをします。

例えば30歳の私に対して「けっこうがんばってたね!おかげで私はいま充実しているよ」。
40歳の私に対して「そんなことでどうする、まけるな!」とか、昔の自分と対話しています。
今の私は、70歳を過ぎてはいますが、日々、自分のブログ「歴史知の百学連環」にいろいろな書き込みをして楽しんでいます。お暇なときに以下のURLを叩いてみてください。
http://ogamachi.livedoor.blog/

ちよ子
皆さん、石塚さんのブログ、ぜひお読みください!
わたしたちも、存分に、今を生きましょう!
石塚さん、ありがとうございました。

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