フレデリック・ラルー、誠実さと活力を取り戻すための招待状⑥(Frederic Laloux with an invitation to reclaim integrity and aliveness)

2020年10月、セルフマネジメント組織コーチであるLisa Gillが主催する「Leadermorphosis」というポッドキャストに、『ティール組織』の著者である、フレデリック・ラルーが登場しました。そのインタビューの訳を7回に分けて掲載していきます。今は、「ティール」を話すことから離れてしまったと言われるフレデリックが、コロナ禍の現状をふまえ、久しぶりに「ティール」についても語ったポッドキャストです。

(前回のつづき)
リサ・ギル
私は、今、2つのことを考えています。1つが時間の経過で、もう1つが私自身の成長についてです。最初の段階、つまり、この旅を始めた時、私はモチベーションの低い人たちに対して、今よりもっと、挑発的で、不寛容であったと思います。そして、表面にだけやる気を見せて本気になっていない人や、真剣になっていない人に対して、一緒にやりたくないという感情も持っていました。ところが今は、その感情が変化しつつあります。なぜなら私は、それらの行動が、実際に価値を持つに至るまで、どんなに大変かが分かるようになってきたからです。その旅は、やはり、とても大変なことです。それともう1つ、私が常に耳にしてきたことで、また、自分自身の経験も踏まえて、あなたがビデオの中で多くの人に向かって問うている「何か」に気付きました。それは、増大する「痛み」と、そしてそれを和らげてくれる話し合いの「場」がいかに重要であるかということでした。

フレデリック・ラルー:
私は本の成功のおかげで、安易な立場にいる自分に気付きました。彼らの言う、黙って上司の言うことを聞け、といった職場に出向いてもらいたいと、大勢人が向こうからやってくるようになって、そのために生活は楽になりました。でも、そうは言っても、多くの人のために本気で会話しなければならないと思う何かが私の中に存在していることも理解していました。私はあなたのポッドキャストの50のエピソードを聞いて、すごく面白いと思いました。あなたは「セルフマネジメント」に向かうための期間がどれほど困難かについて、かなりのボリュームを使って話していました。私のビデオに、その困難な旅を続けていくための2つの方法を話した回があります。あなたはそれを見てくれたかな、なんてことも考えていました。まず、その1つ目は、それが困難な旅になるであろうことを受け入れるというものでした。「セルフマネジメント」の移行期に生じる「痛み」は5000年にわたる人類の歴史の中でも先例のないものだからです。もう1つは、その冒険は一生涯に渡って続くもので、その旅程はとても楽しいものだと信じ切るというものでした。また、それは、皆が心から望んでいることでもあると信じ抜くということでもありました。例えば、以前、バスクカントリー社について話す機会がありました。バスクカントリーを知らない人のために説明しておきますと、同社は60以上の企業からなる企業体で、その下にはさらに1社100人程度の子会社が800ほどあります。創業の父と呼ばれるコルド氏に導かれ、「セルフマネジメント」企業の中でも最も成功を収めた最大規模の企業体へと発展しました。同社を語る時、彼や彼の仲間と交わした会話はとても興味深いものでした。当初、彼以外の仲間は口を揃えて、「セルフマネジメント」への移行はとても難しいと言いました。バスクカントリーの社風は、どこか構えているところがあり、それが改革の邪魔になるだろうという見解でした。その後、私は、たまたまコルド氏と同じ飛行機に乗り合す機会があり、その時に彼と直接話ができました。彼は、「そんな楽しいことは簡単にできるよ」と言いました。さらに付け加えて、「私はそういうのが好きだから。きっと簡単さ」と。困難を見抜きつつも、それを楽しみながら乗り越えようとしているコルド氏の想いが伝わってきたような気がしました。メンバーが、「『痛み』が伴うけれど、それがみんなの成長の機会なんだ」と会話しながら進めていく、そんなビジョンが彼の瞳の中に見て取れました。これこそが、最もクールな「セルフマネジメント」です。氏のおかげで、私は大きな学びを得ることができました。しかし、彼の仲間はまだ以前の感情を持ち続けているようです。ということは、私たちは再度、彼らをリフトアップする必要があるということです。それらは当然、困難なのは言うまでもありません。肩に重荷を背負った人にそれを降ろすように促すのは本当に大変なことです。ゆえに、「共鳴」がとても大事になってきます。そして、コルド氏と私は、完全に、・・・。

リサ・ギル:
ええ、「共鳴」に勝るものはないと思います。あなたの話を聞いて、タフな経験を思い出しました。私たちは、物事を、顧客の視点で解釈する習慣があり、ついつい、「生産的」と「非生産的」とに分けて考えてしまいがちです。まず、スウェーデンにある「セルフマネジメント」で運営している素晴らしい会社のことを話させてください。その会社の経営者、ビョーン・リンデンの驚くべきところは、「セルフマネジメント」にかんする本を読んだこともないのに、設計上の強い意図さえもっていなかったのに、「セルフマネジメント」への移行をやり遂げてしまったところにあります。彼は他の方法を知らなかったため、結果を欲しがることもなかったということもありました。つまり、彼は、熱くなりすぎることなしに、それをやり遂げました。その道のりは容易で、シンプルでした。また、楽しみながら、エキサイティングな瞬間を味わいながら、というものでした。きっと、彼のような先見性のある人は、自分のやっていることや、その特殊性を理解していなくても自在に成し遂げてしまうものなのですね。それが最初に思ったことです。もう1つ思い浮かんだのは、私にとっては一種のパラドックスと言えるものでした。なぜなら、私自身も含めた多くの人が、この旅はエキサイティングで活力があって、正しい行いであると感じている一方で、旅が進むにつれて、以前のような、例えば「恐れ」に支配された状況などに対して、非常に不寛容の度合いを強める傾向があります。スーザン・バスターフィールドらは新しい働き方の本を出版しましたが、執筆者グループが同席した、会場におけるディスカッションはたいへん紛糾しました。新しいものが受け入れられることは本当に難しいものです。答えがなく、専門家でさえも苦労している問題です。私たちは、それほど難しいことに挑戦しているのだとよく理解できました。それゆえ、私は、「痛み」とは成長の対価であることを知ってもらいたくて、多くの人にあなたのビデオを勧めています。たとえば、ダイエットを例に出して、マネージャーが彼のステータスシンボルを手放すことは、健康のためのダイエット法となんら変わらないと、心配には及ばないと言っています。ですので、私にとっては、「困難さ」と「楽しさ」は完全に同居していると言えます。例えば・・・、私はこう考えています。ポッドキャストのテーマを決めるには、リスナーがそれについて聞きたいと思っているはずという前提がなければ成立しません。彼らが常に実用的なものを求めており、また、その切実な思いを何かで埋めたいと思っていると、私は思っています。それゆえに、私は、このポッドキャストを素晴らしいものにしたいと一生懸命に取り組めるのです。それによって、今、私たちは、ここで様々な会話ができているわけです。そこで聞きたいのですが、このポッドキャストを聞いている人たちへのアドバイスとして、彼らが取るべき次のステップで、一歩引いてみた方が良い、などというものはあるでしょうか。もちろん、本が出版されたあとの、あなたが見て学んで得た知恵を少し分けてもらいたいというのが、この質問の意図なのですが。

フレデリック・ラルー:
私は実用性について、いくつか疑問を持つようになりました。つまり、実用性だけを抜き取れば、様々な方向に進むことができてしまうということです。まず、実用性と呼ばれるものは、それほどに数多く存在するということです。私の本からも、いくつもの実用例を見つけることができると思います。そして、それらは誰でも実践が可能なのです。先ほどの本で、著者のスーザンは、構造を自由化できると書いていました。それほど、たくさんのことから選んで始められるということです。ただし、それだけでは、正しいとも、正しくないとも言えないものです。もう1つは、自分を信じて、問題を解決していく方法です。ただ、その場合、何かを変えたいと思っても、その変えたいと思う現実を直視できていないこともあります。しばらくやったところで上手くいかなくなり、そうすると、実際に会えないような創業者の本を読むなどします。そして、そこには、こんなことが書いてあります。「予算組みがなかなかうまくできない。どうやったらうまくできるんだろう。ではちょっと考えてみましょう。答えは得意な人に頼むことです」。そういうハウ・トゥが書いてあります。いわゆる問題解決の方法です。どうやったらそれができますか?工夫はしていますか?どんな風に、どうやってトライするの?などという聞き方で書いてあると思います。私は、この「どうやってやる」かに対して、「許可を求める」レベルの周辺には奇妙な文化が存在していると思っています。それは幼少期の経験が基になっているようです。例えば、食事の時、席を離れるには許可を求める必要はありませんでしたか?学校に通った12年間は、トイレに行く許可を覚えるための12年間だったということです。そういう記憶は私たちの奥深くにこびりついてしまっています。「まだ準備段階ですが、とりあえず始めてもいいでしょうか?やっぱり許可が下りないうちはダメですよね?」などというやり取りが典型的な例です。私は友人の本を読むなどして、この形式的な許可の存在を意識できるようになりました。こういった「許可」が、合理的な手段として、何らかの効果を発揮しているのは最も重要視すべき問題です。本来は、誰も、あなたに与えるような「何か」は持ってはいません。ゴーサインはあなた自身が出すものです。あなたは、あなた自身に「許可」を与えるということです。その自分で与えた「許可」があるからこそ、このポッドキャストの再生を「一時停止」して、私の声をリピートさせることもできるわけですよね。それこそ自由意思があるからです。「私は私の意思でトイレに行きます」、という感じですね。


最後まで読んでいただいて、どうもありがとうございました。