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こういう「キャリア自律」もあるのだろうか

「キャリア自律」とは、「キャリア・オーナーシップ」とも言われる。キャリア形成は会社任せにせず、自分自身で主体的にやっていくという意味だ。ということは自分でコントロールできるものがあるなら、それが一番良いようにも思う。
 
上で、「会社任せにせず」と言った、その「会社」という枠組みがキーとなる。枠があり、その中で優劣を競い、ランクアップができるものなら、そこでは「ゲーム」が成立する。キャリアが「昇進」を扱う一種のゲームだとしたら、そこには、ルールの監督者であるゲームマスターが存在しているはずだ。私は、それは、「人事権」だと思う。
 
このあと、私の、大学を卒業し、社会人になったところから、10年務めあげた会社を辞めるところまでの記述がある。私がその「人事権」に対して、どう対処し、どうゲームを進めてきたのか、自身のキャリアをもって振り返ってみたい。
 
私は最初、東証一部上場のミシンメーカーに入った。学生時代は軽音サークルでバンドをやっていた。特にブルースにのめり込み、ギター1本を担いで、アメリカ南部を一人で旅したりしていた。イリノイ州シカゴと言えばブルースの聖地である。私がその会社を選んだのは、そのイリノイ州に工場を持っているという理由だけだった。ただ、営業所に配属になった、その日の夜に辞表を出して会社を辞めた。面接をしてくれた人事部長あてには超長文の手紙を書いた。この人は話が分かる、と思っていたので誠意は伝えたいと思った。その手紙には、現地の管理職がアホ過ぎる、こんな卑屈な人間のもとでは働きたくない、それでもあなたには感謝している、といった内容のことをつらつら書き連ねた。そして、速達で送った。会社からはそのまま連絡はなかった(と記憶している)。日割りの給料はもらわなかった。保険はどうなったのか覚えてはいない。私は単に、社会人として真面目に働いて会社に貢献したいと思っていた。でも配属された場所があまりにその環境に遠いと思い、会社に対して失望したのだった。私の社会人としての最初の就業経験は数日で終わった。
 
バブルが崩壊したのは大学2回生の時だった。一部のサークルの先輩たちの慌てぶりは今でもよく覚えている。売り手市場から一転して買い手市場になったため、企業のランクを2ランクほど落とさなくてはならなくなったからだ。
 
一浪して入った大学だったが、決して行きたい大学ではなかった。志望校と滑り止めに落ち、滑り止めの滑り止めにしか受からなかった。親には予備校の特待生になって一銭も払わせないからもう1年浪人させて欲しいと頼んだ。しかし、聞いてもらえずに、逆に親は地元の学校であったことに喜び、真っ先に入学金を振り込んだ。さすがに、私もあきらめて、不承不承、その学校へ行くことにした。入学式の時、前の席のパイプ椅子の背にある大学のロゴが目に入った。絶望ともいうべき、とてつもなく大きな挫折感を味わった。実家は神戸電鉄沿線にあり、学校は西宮にあった。関西の方ならよく分かると思うが、必ず、神戸市兵庫区の新開地で電車を乗り換えることになる。入学式の帰り、すぐに自宅に帰る気がせず、入学書類一式の入った紙袋を提げて、気晴らし目的で、新開地の商店街をプラプラ歩いていた。すると、たまたまパチンコ店の新装開店の看板を発見し、何を考えるでもない無反応のまま、開店を待つ列の一番後ろに並んだ。結果は、そこそこ勝った。本当に気晴らしになってしまったなと、ちょっと明るい気持ちにはなったが、大学でもらった書類の入った袋は、入店時のどさくさで破れてボロボロになっていた。その破れた袋を胸に抱きかかえ、大学生ってきっとつまらないだろうな、と思った。
 
親の手前、大学に行くふりだけして、ほとんど毎日、朝からパチンコ店に直行した。その日の資金をすったら、時間つぶしにキャンバスに行った。ただ一般教養には興味が持てず、ほとんど授業にはでなかった。たまに興味のあるものには、すっと紛れ込むように出席していた。あとは、キリスト教学は面白いと思った。実は、入学書類は家で、ボロボロの袋と一緒に捨ててしまっていたので、履修について何も分かっていなかった。もちろん、あとになって取得単位が足りず苦労する。「履修」という言葉を聞くと、いまでも震えあがるし、夢にも何度も出てくる。ただその時はそんな調子でなにも考えていなかった。大学に行っても、誰とも会話しないので、当然、友達はまったくできなかった。ある日、大学の最寄り駅から大学までの距離を歩いていると、たまたま、同じ大学に行く高校時代の友人が声をかけてきた。その時の状況を話したら、とても心配してくれて、彼が入ったという軽音サークルに見学にこないかと誘ってくれた。学食にあるサークルのたまり場に連れていかれた私は、そこで、ローリングストーンズ好きの2つ上の先輩と意気投合してしまい、その場でバンドに入ることが決まってしまった。なんだかんだ、このサークルにはお世話になり、2回生の時は渉外、3回生の時は会長をやった。入った当時20人くらいの零細サークルだったのが、私の代で100名を超える学内でも有数の大きなサークルになった。元々仲が悪いとされてきたライバルの軽音サークルがあったが、私が働きかけ、いわゆるトップ会談によって、学祭でコラボライブをやるようになった。大学を卒業して10年くらい経った頃、学祭を見に行ったら、まだコラボライブをやっていて、驚いたというか倒れそうになった。なぜなら、私がその企画を持ち込んだのは、そのライバルサークルに好きな子がいて、お近づきになりたいという理由しかなかったからだ。私は「交友」とか「友好」とかいうのはそもそも苦手だ。後輩たちは知る由もないだろう。
 
大学に馴染め始めた頃に話は戻る。大学生になって最初の夏、バンドのボーカルの先輩の紹介で、その先輩がやっている百貨店の配達のバイトを始めた。12缶入りだったか、箱入りのビールを2つ、3つ抱え、4階建てのマンションの4階に階段を使って運ぶのには骨が折れた。5階以上の建物にはエレベーターが付くが、4階建てまではたいてい、階段しかない。お中元やお歳暮の時期になると、その箱入りのビールが増えた。特に会社あてにはビールが多い。となると、必然的に雑居ビルやオフィスビルの多い三宮やハーバーランド地区は体力のある学生が担当させられた。高校まで野球をやっていて、体力には自信のあった私には適任だった。エクササイズがてら、おかげで、神戸にある主な会社という会社は全部見て回れた。
 
大学1回生の時というのは、バブル経済の最後の年で、世の中は真面目に仕事をしている人なんて、正直言って本当にいなかった。お中元やお歳暮を届けにオフィスに入り、受付からオフィス全体を見渡すのだが、どこの会社に行っても、動物園かと思うくらいに大人たちが戯れていた。株やギャンブル、ゴルフなどの仕事以外の話題で盛り上がっているのはいいが、いかにそれとなく女性社員のお尻を触れるかに、すべてをささげているとしか思えない、おじさん社員も少なからずいた。そんな中で、ある公共関連の会社でのこと、コンピューターに向かって、真剣な目つきで、黙々と手を動かしている社員の姿を見たときは、こんな人もいるんだなと救われた気持ちになった。オフィススペースに入って、どんな仕事をしているのか、そっと背後に回ってコンピューターの画面を覗いてみた。コンピューターの画面で踊っていたのは、企画書の細かい文字ではなく、ゲームのキャラクターだった。その時点でもういいと思った。私は、会社というのは真面目に働く場所ではないことを理解した。今の汗をかきながら働いている自分の方がはるかに真面目に働いているし、社会のために役立っていると思った。そういうのを見ていると就職したいとはまったく思わなくなった。どうやったらきちんとした労働ができるか、つまり、社会に参加できるかばかりを考えるようになった。と同時に、社会に参加しないで食べていける方法はないかとも考えだした。
 
多分、私の労働観、キャリアについての向き合い方は、大学時代の経験がベースになっていると思う。社会人になって最初の就職は一瞬で終わったが、やはり、食べていかなくてはいけない。ミシンメーカーの次は、デパートの時計売り場だった。宝飾・時計の会社がデパートにテナントで入っており、その求人に応募したら受かった。当時は個人で音楽活動もやっていた。三宮のライブハウス、2件でレギュラーを持っていたので、就職してもそれは続けたいと思っていた。つまり、デパートなら確実に20時には仕事が終わるだろうという理由でその会社を選んだ。
 
最初の店長は歳が近いこともあって面倒見がよく、仕事が終わってからも、よくカジノとかに付き合ってくれた。二人が時計売り場のカウンターに立っていると、正面から来られたお客様は私のところではなく、必ず店長の方に向かっていって店長に用向きを伝えた。私はそれがなぜだか分からなかった。笑顔が違うのだろうか?分からない。そういう部分でも店長は尊敬できたし、早く並んで、いずれは追い越したいとも思った。ただその店長も、1年くらいで、家業を継ぐということで、会社を辞めていった。
 
次の店長は50代の方だったが、異動で京都の店から移ってきた。その人とはなんとなく合わないなと思っていた。そんな中、商品の紛失事件が起こった。私が外商に貸し出した商品がなくなったのだ。外商は売り場に商品を返したと言う。しかし、誰が受け取ったのかは分からない。当然、帳簿は消込になっていない。そんな中、店長から、担当である私が商品の返却を受けたのではないかと疑いの言葉を掛けられた。ロッカーや自宅、全部探せと言われた。私は、それは意味のないことだと主張したが、やらざるを得なかった。それよりも、盗んだとまでは言われなくても、私がなくしたと思われていることには耐えられなかった。なぜ、部下を守ってくれないのだろう、なぜ信用してくれないのだろうと思うと、悲しくなった。この人とは一緒に働けないと思った。と、その後、自然に、本社の部長のところへ電話していた。もうこの人とは一緒に働けません、部長の「人事権」を持って、なんとかしてくださいというお願いの電話をした。もちろん、騒動の最中での異動はないと思っていたので、それが片付いたら、店長か私、どちらかは店を替わらせて欲しいという内容だった。
 
店長と私、二人のボーナスの減給が決まった矢先だった。外商から当然内線電話があり、「ごめん、ごめん、商品金庫の一番下にあったわー。見つけられんで、悪かったなー」という謝罪ともなんとも取れない一言だった。それとともに商品が元のままの状態で戻ってきた。店長と私の二人は、その外商への怒りよりも安堵が先に立って、放心状態のまま、へなへなと顔を見合わせた。しかし、事件の後も、店長からの「いびり」と、二人の「小競り合い」は続いた。私が本社の部長にかける電話の回数も増えていった。最後は毎晩のように、部長の家に電話をしていた。私は部長のことは信頼していた。話が分かる人にしか、私はそんなことはしない。部長が根負けしてなのか、念願かなって、次の春の人事異動で、私は本社の営業部配属となった。通常の営業ではなく、提携会社との新規プロジェクトチームだった。店長と喧嘩しながらもいくつか販売レコードを立てておいたのが良かった。プロジェクト・リーダーの目に止まり、本社から声が掛かったという形の異動になった。そのプロジェクト・リーダーというのは社長の息子だった。つまり、次期社長だ。そのことが、後々、大きな問題となって降りかかってくることになるのだが、この時は知る由もなかった。
 
デパートから本社営業部という人事が初めてだったせいか、私は本社ではあまり歓迎されていないのがよく分かった。自分は中途の枠で入社したということを思い出して、周りは皆新卒だという、その違いを改めて知った。特に2つ上、3つ上くらいの先輩たちは、ほとんど誰も口をきいてくれなかった。私は私で、どうせバブル期入社の出来損ないくらいにしか思っていなかった。そういうのが態度に出ていたのかもしれない。同じプロジェクトチームの先輩は、それらの先輩たちの同期だったから、ものすごく気を使わせてしまった。いまになって申し訳ないと思う。そういう意味で人間関係は良くなかった。その頃、よく道端で、新興宗教とか自己啓発系のセミナーだとかに声を掛けられて施設に連れていかれた。彼らを論破することくらい、朝飯前だったので、セミナーに参加することにリスクは感じなかった。むしろ、暇つぶしに付き合ってもらって申し訳ないと思っていた。そこでは、必ず最初に、「今、悩んでいることはありますか?」と聞かれた。その時は、「人間関係かな?」と答えることにしていた。悩んでもないけど、なんだかな、といった感じで過ごした数年だった。
 
デパート時代、外商さんたちによく遊んでもらっていた関係で、ゴルフは25歳で始めた。それが本社に行って役に立った。社内コンペのたびに、一番若い私が幹事の方のお手伝いをして、様々な調整をした。そして、そのたびに、社内の人脈が増えていった。取締役や部長クラスとはほとんどの人と直接会話できるようになった。本社ビルの周りには物流倉庫など、いくつか拠点が点在していたが、その間を移動している時などでも、呼び止められて、よく他部署の部長たちとお茶をした。その頃になると後輩もできてくるのだが、ある後輩からは、私の人脈形成の仕方を教えて欲しいと言われた。押さえるところは全部押さえているが、なぜそんなことができるのか知りたいということだった。私は、「えっ、そうなん?あーでも確かに、そう言われればそうかも」とぐらいで意図はしていないと伝えた。その後輩は、その3年後くらいに転職して、もっと大きなフィールドでチャレンジして、業界の中でも顔が知れた人物に育っていく。彼の方こそ、見るべきポイントを見ていたということなのだろう。
 
結局、私は、その会社で、3年と同じ仕事をやらなかった。基本的に2年おきに、抜擢され、次々に新しいことに挑戦させてもらえた。30歳の時に、一般社員では初めてという、東京への異動を経験した。その2年前くらいからは、社長室にも出入りできるようになっていた。東京の営業本部長の立場から私を呼んでくれたのは、かつてプロジェクトを一緒にやった彼、社長の息子であった。
 
関西から東京に移って、今度は東京から、全国の支店の営業推進を担当することになった。しかし、各支店の私への反応はとても冷たいものだった。当時は北朝鮮に存在すると言われた「喜び組」という言葉が流行っていた。私を含め本部長のお気に入りは、将軍様にこびへつらう輩どもとして、陰で「喜び組」と呼ばれていることも知っていた。中には、面と向かって「将軍様ごっこをしに東京に行った人ですね」と言ってくる人もいた。私は、関心を持ってくれていることはチャンスと思い、そういう相手には必ず、きちんと説明をした。私は自分の担当しているブランドのことが好きで、それを本当に売りたいと思っている。他の国で売れて日本で売れないのはおかしいと思っている。私は、真剣にそのブランドを売りたいと思っているし、そのためには、自分が東京に行くことが一番いいと思った。これから販売システムも営業が売りやすいようにどんどん変えて行く。だから協力して欲しい、と。これを繰り返していると全国各地に協力者が増えていった。なんとかできるという手ごたえもあった。しかし、社内でのキャリアについて、どこかで少し、飽きが生じていた。あるとき、「そこまでして出世したいのか」と以前、担当者レベルで言われていたような発言が、支店長クラスの口から出てきた。私は、逆に、いい歳をして、30前後の若者にそんなことを言って恥ずかしくないのかと思った。その卑屈さは過去に味わったものと共通のものを感じた。その時、そろそろ潮時かな、と思った。それから1年くらいして、ちょうど10年一区切りという形でその会社を辞めた。上に媚び入ることで出世しようとしたのではないと、それを証明するために辞めたと言ってもいいし、もうすでに飽きていたと言っても、どちらでもいいと思う。
 
「キャリア」とは、その会社の中にある限り、ゲームの道具のようなものだ。「人事権」というゲームのルールがまかり通る前提があって機能し、価値付けが行われる。だから、だれがその「人事権」を持っているかを把握して、コントロールすればよい。特に日本の人事は「ポテンシャル」という言葉が大好きだ。ファクトベースでは通用しない。しかし、おそらく、「ポテンシャル」というのは、使えても30代までだろう。最後に、このようにゲームを自律的にコントロールすることを「キャリア自律」と呼んでいいのかどうかは、やはり分からない。

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