いじめのことばに真実はない。

こんにちわ、そしてようこそ。

お元気でお過ごしですか?あなたは、いまどんな気持ちでこれを読んでくれているのだろう。

ことばの持つ力。皮肉にもそれをつよく意識することになったきっかけは、もしかしたらいじめだったかもしれません。

ブス。豚。デブ。
死ね。

小学校2年から卒業まで、無防備なこどものハートに容赦なくつきたてられたことばという凶器。
でも鏡に映るのは、小柄できゃしゃな普通のおんなのこ。
(人間のね)

自分の一体何がいけないんだろう。じぶんの目にだけうつらない、なにかとてもみにくい姿をまとっているのだろうか。

わたしだけ違う星から来たのかな。

(ここでとりいそぎ大事な話:
みにくいこどもなんていないよ。
ぽっちゃりだったとしても、みにくくはない。
こどもをそんなものさしで云々すること自体、間違ってると思う。)

いじめのことばに真実はない。
そう断言できるのは、真実をつたえるのにいじめという手段を
選ばない。選ぶわけがない。
選んだ時点で、うそは自明のこととなる。

じぶんの話に戻りますが、
毎日 x 5年間のすりこみ、そして
かれらの言っていることと自分の目に映るじぶんのすがたの圧倒的なずれ。
(認知的不協和、というらしい)
なにが現実なのかわからない、自分は誰の目にも映らない。
じぶんはたったひとり、まわりの全員とは違う現実の中に生きているらしい、という身を切るような孤独感。
そして助けはどこからもやってこない。じぶんには助ける価値がない。

味方がいなかったせいもあり、抜け出すのに長い時間とたくさんの内面の作業が必要でした。後悔はしてない、でも長かった。

苦しい時代が長かったからこそ見える人生の美しさ、もあるのかもしれない。でもね、

どうしてもこれを伝えたかったんです。もしかしたらわたしなんぞの言葉でも何かの足しになるかもしれない。

いじめに使われることばが真実なわけはない。
かれらは現実を照らし出そうとしているのではない。
彼らは、いじめをうけているあなたの現実をひんまげようとしているのです。「これを現実としてうけいれろ」と。
その理由がなんであれ、それはかれら自身の理由であり、それをじぶんで引き受けずにいじめというかたちで投げつけるのはどう考えたって間違っているのです。

長くなりました。言いたいことはもっとたくさんあるのですが、今日はこの辺で。

読んでくれてありがとう。


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