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生前葬とはなんじゃろかい

生前葬について、考える。生前葬というものがよくわからないので、生前葬について調べてみる。

人生においてお世話になった友人・知人を招待し、“元気なうちに感謝の気持ちやお別れを告げるお葬式”を生前葬と呼びます。晩年を迎え、友人・知人などの社会的関係に区切りをつける場合に行われています。

https://www.koekisha.co.jp/fee/plan/before/より引用

生前葬について真剣に考えたことはないのだが、人間”作る”という行為は、自分の葬儀を見越しているのだと思う。

『トムソーヤー』の冒険に、島から帰ってきたトムたちが自分たちの葬式を見るというエピソードがある。あれは究極だと思う。死んだ後に、”ご遺体”になった我々に意識があるのかないのかはわからないが、もし意識があって、家族や友人やお世話になった人が自分に語りかけてくれる”最後の”言葉を聞けたなら・・・と想像する。どんな気持ちになるのだろう。想像もつかない。幸福か不幸か、感謝か絶望か。それとも諦念か。もしかしたら、それが悟りの境地ってやつかもしれない。もしかしたらそれが救いってやつなのかもしれない。きっと不思議な気分になるだろう。”ご遺体”となっちゃあ、会話はできないわけだし、一方通行に囁かれる自分への言葉。どんな気持ちになるのだろう。

僕はパステル画を描いていて、もうすぐ150枚くらいになるのだけれど、80枚を越したくらいから、これらのパステル画が自分の葬儀の場にズラッと並べられる場面を想像しながら描いていた。きっと、僕の葬儀に来てくれた人だったら、絵を見てくれるだろうし、きっと僕の絵がきっかけで、参列者同士の会話も生まれるはずだ。きっと、僕が”つくってきた”もの(例えば無数のインタビューだったり、それに相当するもの)で新しい人間関係が生まれるはずだ。きっとそれは奇跡的なことに近い。きっと輝いて見えるはずだ。僕が出会って来た人と、僕が出会って来た人、その見知らぬふたり、もしくは三人や、四人が、僕の葬儀の場で、僕のパステルや、僕が”つくって”きたもので、繋がる。そこにはきっと、(僕にとって)究極的に美しい図形が表出するはずだ。

僕はこの二年間で常に”死”について意識していた。生活に”死”がまとわりついていたし、ふとしたきっかけで”死”に直結することを知った。身体性と”死”が表裏一体であることを知った。”つくる”という行為は精神に直結しているようだけど、実は身体的なもので、その自らの身体性を”何かに”刻むために、”つくる”という行為を生み出したのではないか。とある洞窟に、遥か昔の人類が描いた絵があるらしい。僕は詳しくないけど、きっとその絵を描いたのは狩猟採集民だったと思う。狩りを生活の主軸にしていた彼らは、きっと死に直結した生活をしていたに違いない。

これは僕の憶測に過ぎないのだけど、彼らはもしかしたら、自らを”弔ってもらう”ために、”つくる”という行為を生み出したのかもしれない。自分が描いた壁画で、仲間たちが自分のことを”思い出せる”ように、芸術を生み出していったのかもしれない。

そんなことを思いながら、今日もパステル画を描く。

今日のパステル画『鴨川の堤防の木』

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