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京都の”道”について

僕は京都に住んでいる。言わずもがな、今日は碁盤の目状になっていて、ほとんどの道が十字に交差している。この碁盤の目になっている道はとにかく狭くて、車で通る時はほとんどが一方通行だし、自転車は関係なく交錯して走っているし、人ふたりが並んで歩くと瞬く間にクラクションを鳴らされる。生活道路として、大変不便である。たまに滋賀を車で通ってみたりすると、すごく走りやすい道だなあ、と思う。特に湖西道路なんかは、琵琶湖を眺めながら車を運転できるし、徒歩になれば、琵琶湖沿いをのんびり散歩なんかできる。いいなあ、と思ったりする。

しかしながら、京都の道は、何かこう、言われぬ魅力がある。道に刻まれた歴史なのか、一見、なんの変哲もないアスファルトながら、そこに息づいている時間の流れだとか、昔の人々の足跡だとか、もしかしたらそこで倒れて死んだ人がいるかもしれない。幕末だったら、路上で斬られた人もいるだろう。三条大橋を渡るときは、ここは昔は処刑場だったとか、見せしめがあったとか、石川五右衛門がここで釜茹でにされただとかを考える。東から今出川通と歩いてきて、出町柳のあたりで大文字山を見る時、もしかしたら、あそこには天狗がいるかもしれない、と思い出す。目に見えるもの、もしくは目に見えないもの、に出会う時、それは道の上であることがほとんどだ。そんなことに気がついた。寝ている時でもなく、家にいる時でもなく、道の上を歩いている時(それは妻と歩いているときかもしれないし、ひとりで歩いているときかもしれない)その時に、京都の街の上に、一種”絶対的”に横たわる歴史に遭遇する。

僕は京都に住んでいて、そして、京都の道が好きである。僕はパステルで絵を描いているけれど、そのほとんどに”道”が写っている。もしくは、”道”から見た風景を描いている。僕のパステルがは心象風景ではなく、風景画なので、僕が題材を見つけた時、もしくは向こうから題材が”やって来た”時、そこに道があるということだ。どうしようもなく、毎日の風景の中に、道が屹立している、ということだ。それぐらい京都の道は僕の足元にから”根付いている”。
今日描いた絵も、岡崎公園から西を見たときの風景だ。夕日がとても美しかったので、それを写真に納めていた。
やっぱり、そこにも”道”があった。その写真も、”道”の上で撮ったことを、パステル画を描きながら、思い出した。

今日のパステル画『岡崎公園から見た夕景』

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