見出し画像

第二十九話 遠近両用眼鏡


還暦を過ぎた。
それよりだいぶ前から老眼が進んで、近くのものが見え辛くなっていた。若い頃からの近眼もそのままだ。近くも遠くもよく見えないと云うのは何かと不便なものだ。
そこで男は遠近両用眼鏡を作ることにした。早速、眼鏡屋に行った。
最近は安上がりの眼鏡チェーンが増え、互いに競争してくれるので、利用者としては大変有難い。嘗ての数分の一の金額で眼鏡が誂えるようになった。一年以内なら何度でも調整OKとか、事情の如何に拘わらず破損した場合は一切無料で補償とか、二つ目からは半額など、こちらが心配してしまうほどに手厚いサービスを用意している。
検眼が済み、暫くして出来上がった眼鏡を掛けてみた。なんだかしっくりいかない。何度か調整を加えると、「これなら大丈夫」と思える程度に仕上がった。会計を済ませ、店を後にして暫くすると、軽い頭痛のようなものを感じるようになった。
「できたばかりの眼鏡って、最初は合わないかも知れませんが、心配は要りません。眼のほうで次第に慣れてきますから・・・」、と言っていた店員の言葉を想い出した。
我慢して掛け続けていると、妙な感覚に襲われるようになってきた。これまで感じなかったことや、気が付かなかったことに気づき始めた。脳のこれまで使ったことのなかった所とは違った部分が活性化されたのか、新しい能力に目覚めるようになったのだ。
男がその能力に気づいたのは何気なくノートに悪戯書きをしているときだった。鉛筆が勝手に動いて見事な絵が描けるようになっていた。イメージした通りの絵が、それも綺麗な線できりっと描けるようになっていた。全く、若い頃には無かった能力なので、我ながら驚いた。
あるとき、買い物をしていると買ったものの金額が瞬く間に合計され、釣銭の金額も考える間もなくすらすらと出てくるようになった。様々な場面で報じられる統計数字も、母数を知ると、瞬く間に平均値が出てくる。さらに驚いたことに、習いもしないのに楽器が弾けるようになったのだ。それもピアノなどの鍵盤楽器から管楽器、さらにバイオリンなどの弦楽器まで弾けるようになった。
新しい自分の誕生だ。
自分が新しくなっていることに気づくと何となくわくわくしてくる。わくわくしてくると陽気になる。陽気は強気を連れてくる。何事にも臆せず首を突っ込み、自ら主導して事を運ぶようになった。
そのうちに市議会議員に立候補して当選したのを皮切りに、県議会議員を経て国会議員になった。そして遂に一国の宰相にまで上り詰めた。
男は、昔日の、何かにつけて引っ込み思案だった頃の自分を恥じた。そして昔の自分の記憶を消してしまいたいと云う欲望がふつふつと沸いてきた。
自分の記憶を忌み嫌うと不思議なことに、次第に記憶の中から都合の悪い部分の記憶が薄れていった。次第に元の自分を失って違う自分になっていくのが判った。そこで、自分の昔を知っている友人もいなくなれば、これほどすっきりすることも無かろうと、罪名を捏造し、友人を一人残らず処刑してしまった。
これでもう昔の自分を知っている者は誰一人として居なくなった。
男は精勤を旨としていつものように政務に励んでいた。
流石に根を詰めて政務に励むと肩が凝り、眼がしょぼしょぼしてくる。もう寄る年波なのだ。気分転換に伸びをして窓の外を眺めた。すると、窓の外を何かが忙しく動いていた。眼鏡は何処に置いたのか、手元を探しても見当たらない。そこで子どもの頃、近眼になりたてでまだ眼鏡を誂える前にやっていたように、指を丸めて小さな円を作ってそこから覗いた。すると、カメラの絞りの原理で像が鮮明に見えた。
数羽の雀が無邪気に遊んでいた。自分にもあんな時代があったのかと、ふと感傷的になった。
そして窓硝子に映った自分の顔を観て、男はそれが誰だか判らなくなってしまった。
雀は微塵の邪気も無く、相も変わらずに遊んでいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?