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第四十六話 虫愛ずる女房


女房とは友人を介して知り合った。
結婚式を挙げたのは私が三十五歳のときで、彼女は三つ年上だった。旧友や従弟など、わたしの周りでは不思議と年上の女性と結婚する奴が多かったのだ。
共働きだが、昆虫学者というのも珍しいだろう。いや、私がではなく女房が昆虫学者なのだ。主にヒアリの研究をしている。太平洋沿岸の米国や中国、オーストリアなどに生息する蟻が彼女の研究対象だ。女房の話によると猛毒を持っていて、下手をすると人間も刺されて死ぬ場合があるそうだ。
女房に初めて会ったのは葬式の席だった。
彼女は私の高校時代の友人の兄の奥さんだったが、不幸にも死因の判らないままにご主人を亡くされた。その葬式で見かけた彼女の喪服姿にぐっときたのが馴れ初めだった。
女房は大学で講座を持っていて、平日は朝から晩まで家を空けている。生態学を教えながらヒアリの研究もしているので、大抵、帰りは夜になった。
私は出版社を退職してフリーランスで書籍や雑誌の編集を手掛けている。仕事は打合せのときを除いてほとんど自宅でやっている。仕事場は小さいながらも私専用の書斎が一階の階段の下に在る。
冬場は何ともなかったのだが、そろそろ梅雨を迎えようかという頃になると、ときにテーブルの上に置いた腕に小さいが鋭い痛みを感じることがあった。
最初のうち、何が原因で痛みを惹き起こしているのか判らなかった。テーブルの上には虫ピンや薬品など、痛みの原因になるようなものは何一つない。暫く原因が判らないままに、時折り腕を襲ってくる痛みに耐えていた。
そんなある日、テーブルの上をミシン目のように小さな赤い点が壁際まで連なっているのが眼に止まった。
眼を凝らすと、一つひとつの点は小さな赤い蟻のようだ。芥子粒よりも細かい、老眼の眼では見逃してしまう小さな蟻。その小さな蟻のうちの一匹が腕の内側の柔らかい部分に噛みついていた。
虫眼鏡でも使わなければ見つけられないほどの小さな蟻が人に結構な痛みを与えることに、私は妙に感心してしまった。
どうやら、その蟻は書斎に置いてあるおやつを目指して集まってくるらしい。私は特段甘いものが好きなわけではない。女房が出がけに決まってビスケットやクッキーなどの甘いものを皿に盛って、「これ、疲れたときに好いわよ」と持ってくる。どうやらそれが目当てのようだ。
夏になると、庭の手入れを女房から仰せつかった。夏場の雑草は採っても、二週間ほどするとまた生えてくる。種は何処から来るのやら、心当たりもないのに、夏の陽を浴びて刈ってもかっても陸続と生えてくる。
雑草刈りをしているとどう云う訳か決まって蜂がやって来る。アシナガバチなら多少痛いのを我慢すればさほどの問題もない。しかしスズメバチに刺されるなると命に関わることがある。何回か刺されているとアナフラキシーショックを呼び起こし、死に至ることがある。蜂も蟻も同じ仲間である。小さな蟻でも何回も咬まれているとアナフラキシーショックを引き起こすことがあるらしい。
女房は大学院で蟻の研究をやっているのだが、昨今、政府の補助金が削られて申請してもなかなか研究費が下りない。「役人って本当に頭が堅いんだから」と、度々愚痴を聞かされた。
ある日、長袖のシャツを探していて、箪笥の中に大量の保険証書があるのを見つけた。女房に訊くと、「子どもたちの教育費も家のローンもまだあるでしょ。もしものことがあったらと思って、掛け金も少額で済むっていうから念のために入ってみたのよ」ということだった。それにしても大量の証書だ。どれも私に掛けられた生命保険で、受取人は女房になっている。意外に堅実なところがあるな、と感心した。
前の年、庭の草取りで何回か蜂に刺された。今年は用心のため、作業用の帽子を買ってきた。顔の周りを網で覆うフェースガードつきのやつだ。雨上がりの朝、手袋と長靴も忘れずに完全防備で庭に降り立った。
取り掛かってすぐに、もう少し早めにやればよかったと後悔した。雑草は、種類にも依るのだが、既に十センチほどに伸びていて、根っこがしっかりと地面に喰い込んでいる。
小一時間も雑草と格闘しているとすっかり汗ばんできた。汗を拭おうとして帽子を脱いだ。と、運の悪いことに、そこに蜂がやってきて頭をチクリと刺された。
多分アシナガバチだろうと多寡をくくって炎天下でさらに作業を続けた。
暫くすると、気分が悪くなってきた。作業を止めて家の中に入った。シャワーを浴びて汗を流し、ベッドに横になった。胸に手をやると、心臓の拍動が速くなっている。引いたはずの汗が冷や汗になって戻ってくる。
そのまま夜まで寝込んでしまった。
女房が帰ってきた。
昼間の出来事を話すと、「熱中症かも知れないわね。じゃあ、おかゆでも作ろうかしら」と言って、台所に向かった。
また暫く寝入ってしまった。
布団のかかっていない顔の部分がちくちくするので目が覚めた。
手で顔を払い、あわてて飛び起きた。布団の周りには赤い蟻が列を為して蠢いていた。枕もとにクッキーを乗せた皿が置いてあった。それを目掛けて行進してくる。列の先に視線を遣ると、小さなミシン目は台所へと通じていた。

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