第二十二話 種なしブドウの種を売る男
そこは町と云うには寂し過ぎ、かと云って村と呼ぶのは憚られる所だった。取り敢えずここでは「この地」と呼ぶことにして話を進めよう。
ある早春の午後、この地の街外れに痩躯長身の男が大ぶりの黒い鞄を携えて現れた。
大都市の郊外に在るこの地では、嘗て専業農家で人口の過半数が占められていた。しかし、ご多聞に漏れず、農業の衰退と過疎化がじわじわと進み、今では兼業農家すら藁屑に紛れた小枝程度に残るだけだった。
男はこの地の中心街の四辻に「奇跡的品種改良の賜物! 種なしブドウの種、直売」と大書した幟を立てた。
界隈は閑散として、道行く人は間歇的にしか通らないのだが、その幟の「種なしブドウの種」と云う文句に首を傾げ、なかにはくすりと笑う者さえいた。
この地ではもうほとんど専業農家は見られなくなった。とはいえ、父母や祖父母、あるいは近い先祖の多くは農業に従事していた家族ばかりだ。だから、今でも自家消費用や家庭菜園で野菜を育てるくらいの農事知識は誰もが持っている。それ故、この地の住民の間では「種なしブドウの種」など存在しないことは自明だったのだ。
種なしブドウを作るには、通常のブドウが開花受粉を迎える満開前と後の二回、ジベレリンと云う薬品に房を浸して作る。そもそも「種なしブドウ」と云う樹が在るわけではないのだ。
四辻に立って「種なしブドウの種」を商う男に、ある老人がからかうつもりで訊ねた。
「この種なしブドウの種とやらはいか程かな」
男は如何にもその道のプロであるかのように自信たっぷりに応えた。
「いらっしゃいお爺さん、はい、一粒百円でございますよ」
「ところでお若いの、この種は何処で仕入れたのじゃな」
「この種なしブドウの種はですね、当社と提携する、筑波に在る全国でも最高峰の農事試験場で失敗に失敗を重ね、それでも諦めることなく二十年の歳月をかけてやっと開発に漕ぎつけた奇跡の種です。他所ではけして手に入らない珍しいものでございます」
「しかしお若いの、種なしブドウはどうやって作られるのかご存知かな」
「ええ、通常のブドウをジベレリン処理して作るものです。それくらい皆さんもご存知のように常識でしょう」
「おおっ、判っているのなら結構、結構。それで、どうやって種なしブドウから種を採るのかな。それが不思議じゃな」
「疑問に感じるのもご尤も。昔、種の無いブドウからどうやって種を採るのかと云う難問に取り組んだ若き研究者がおりました。当社でその研究者をスカウトしまして、研究に研究、失敗に失敗を重ねてやっと成功したと云うわけです」
「そこじゃ、そこじゃ。そこのところをもっと詳しく話してくださらんか」
「いやいや、話したいのはやまやまですが、お爺さん。これ以上は開発の機密に属することで、残念ながら詳らかにできないのですよ」と男は額に汗を浮かべて懸命にお茶を濁した。
男の話には多少眉唾のところもないではなかった。しかし、毎年のジベレリン処理の手間を考えるとこの地の住民には魅力的な話だった。何より一粒百円という手ごろな値段も後を押した。十粒買っても千円で済む。人々は挙って男から種なしブドウの種を買い求めた。
ひと通り販売し終えると安堵の胸を撫で下ろし、男はおもむろに口を開いた。
「この度は当社が研究に研究を重ねて開発に漕ぎつけました種なしブドウの種をお買い求めいただき、誠にありがとうございました。お陰様で完売となりました。さて皆さん、実は皆さんにお買い求め頂いた種なしブドウの種ですが、ひとつだけお気をつけ願いたい点がございます。研究に長い歳月をかけたことからもお判りのように、何しろ手間暇がかかります。発芽するまでにも二十年という歳月がかかります。二十年待って頂ければ、必ずや芽を出し、皆さんの手を煩わせることなく、美味しい種なしブドウが収穫できるでしょう」とひとくさり口上を述べると去っていった。
男は確かにプロだった。それも農業のプロではなく法律のプロだったのである。二十年経てば詐欺罪は時効になる。男はそれを知っていて在りもしない種なしブドウの種を売っていたのだ。さらに男は人間がどのようなものかも知悉した人間観察のプロだった。実のところ二十年も経てば、人は種を誰から買ったかはもちろん、植えたことすら忘れてしまう。
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