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第百四話 胸に一物、背中に毛あり

「ほぅ~、見事ですね」
「えっ、何が?」
「背中、背中ですよ。胸毛と云うのは聞いたことがありますけど、背毛ですか、フサフサ、黒々と立派なものを生やしているんですね」
一瞬、ギクッとした。
「ああ、これね」
滂沱の汗が流れた。冷静を装って応えたものの、心中は穏やかではなかった。酔って背中の毛のことをすっかり忘れていたのだ。
「背中の毛だから、胸毛(ムナゲ)に対して背毛(セゲ)でいいんですかね。でもセゲって何だか言いにくいですね」
ピシピシと白樺の小枝を忙しく身体に打ち付けながら、同僚は悪びれる風もなく私の背中の毛を話題にし続けている。
「ハッハッハッは、そうだね、背毛(セゲ)は言い難いよね、背毛(セゲ)は。ハイモーってのはどうかね、ハイモーってのは」
「そうですね、ハイモーですか。ハイモー、好いかも知れないですね。なんかこう外国の言葉みたいだし、オシャレな感じがして」
ハイモーの話題で盛り上がって、結局サウナに小一時間も入っていたことになる。
大分汗をかいた。忘年会の酔いもすっかり醒めてしまった。
汗を水風呂で流すと、「それじゃあまた。好いお年を」
挨拶もそこそこにいつもの終電に飛び乗った。
女房は胸毛がダメだ。それは結婚する前から知っていた。
「アタシ、毛深い人ってパス。胸毛なんて想像しただけで虫唾が走りそう」
胸毛がダメなら背毛もダメだろう。
だから、騙すつもりはなかったが、背中に毛が生えていることは言わずに結婚した。背毛のせいで破局するなんて、想像するだけでも気が狂いそうだ。
結婚式直前にはエステに通って全身脱毛を済ませておいた。早晩、また生えてくるのは織り込み済みだ。
「その時はそっと剃刀で剃るか、またエステに通えばいい」
簡単に思っていた。
万一を懼れ、新婚初夜の楽しみでもある女房と一緒に入って洗いっこするのは禁欲した。初夜のときから一緒に風呂に入らなかったので、以来今日まで、女房は夫婦とはそういうものだと何の疑問も懐かない様子だ。だが、毎朝身嗜みとして髭を剃ることはしても、行住坐臥、背中に気を配っているわけにもいかない。
結婚して三年も経てばそうそう細かなところまで気を配ってもいられない。迂闊と云えば迂闊だったかも知れない。事が終わってパジャマを着ようとした。枕灯を点けて営んでいたことをすっかり忘れて、うっかり背中を女房に向けてしまった。慣れとは怖いものだ。
「あらあなた、その背中のポツポツ、それは?」
「背中のポツポツ?」
「何か細かい黒いポツポツがいっぱい背中に貼り付いているわよ」
私はそそくさとパジャマを着終えると妻に向き直り、「湿疹、シッシンだよ。ここんとこ飲み会が続いていて肝臓に負担が掛かったんじゃないかな。言わなかったかな、昔から俺、飲んだ後に湿疹が出ることがあるんだよ、それも背中を中心に」
「そう、でも肝臓の不具合で出るのは蕁麻疹じゃない」
確かに蕁麻疹かも知れない。
私は平静を装って、「あぁ、じゃあジンマシンかな」。
「でも蕁麻疹は赤くなるのに黒かったわよ。変ね」
しぶとく畳み掛けてくる。
「そう、一般的にはそうなんだろうね。でも俺、特異体質だから。それに暗いから黒く見えたんじゃないかな」
「そぉ、湿疹でも蕁麻疹でも、そう言うのって体の中からの悲鳴だって言うじゃない。ちょっと見せてみなさいよ」
女房は「一度お医者さんに診てもらうか精密検査でも受けてみたら」と言いながら、私のパジャマのボタンに手を掛けようとした。
私は慌てて、「そうだね。俺もそういつまでも若くはないし、今度時間を作って精密検査を受けてみるよ」とパジャマの前をガードしながら布団を手繰り寄せ慌てて潜り込んだ。
その場は何とか誤魔化せた。安堵の胸を撫で下ろしたものの、何時、背中の毛のことがバレるかも知れない。
「髭ならともかく、背中じゃ剃刀も全部は届かないし、そう頻繁にエスト通いもできないし」
それ以来、必ず灯りが消えていることを確かめてから寝ることにした。営みの最中もパジャマの上は脱がないままか、夏には薄いシャツを着こむことにした。
だが、事に及んでも何となく背中が気になって集中できないことがあった。
そんなことが重なって不如意になってしまった。
「やれやれ、この歳でどうしたんだろう」
専門医に診てもらうと心因性のインポテンツだと云う見立てだった。そうだろう。そうとしか想いつかない。
だが、これからも続く結婚生活だ。そう何時までも隠し通せるものでもないだろう。
「どうしたものか」
悩んだ末に、私は守りから攻めに転じることに決めた。
「攻撃は最大の防御なり」
孫氏の兵法にも記されている。
「この場合の攻撃とは何のことだ? 毛を剃るのが防御なら攻撃とは毛を生やすことではないのか」
私はこれまでの経緯を一切捨てて、背中の毛を、そうハイモーを思いっきり生やすことにした。
それから女房に気取られぬように注意深く三か月、育毛剤をたっぷりと塗って生やし続けた。
やがて背中には見事な毛がツヤツヤと生えてきた。
身体を捻って風呂場の鏡に映して背中を映してみた。そこには黒々とした剛毛が羽根のようにびっしりと生えていた。それはペルシャ絨毯のような高貴さを湛えていた。私は言いようのない胸の昂りを覚えた。
「ステキじゃないか! 冬だって暖かいし、暖房要らずだ」
私は台所から女房を呼び寄せると、パジャマを脱ぎ捨て、軽いステップで一回りした。
「ほら見てごらん、今日からぼくは天使になったんだよ」
女房は包丁を握ったまま、「ギャッ」と悲鳴をあげて卒倒した。

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