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第六十九話 風鈴と嬌声


「チリリン、チリン、」
風もないのに風鈴の音がする。
「カタ、カタ、カタ」
家具が壁を打つ音が幽かに聞こえる。
犬の遠吠えが聞こえる。
小刻みな振動がコトの始まりを告げる。
暫くすると揺れの振幅が大きくなり、古い木製の硝子戸がガタガタと鳴りだす。堪えきれずに漏らす女の嬌声が壁越しに流れてくる。やがて、「あっ、あっ、あっ」と溜まった息を間歇的に吐く息使いが聞こえる。揺れが激しくなったかと思うと、まもなく感極まった「あん、あん、あん・・・」と断末魔の叫び声で終わる。
土曜の深夜になると嬌態は決まって繰り広げられる。
その古い二階建ての木造アパートには、廊下を挟んで十五の部屋がある。いずれも六畳の部屋で、入り口に単身者用の小さな流しとガスコンロが据え付けられていて、ちょっとした煮炊きのできる台所になっていた。
そこは、私にとっては、上京して二軒目の下宿だった。最初は、山梨の実家に帰るのに便利なのと、広い割には安かったので、八王子にアパートを借りた。しかし、新宿のキャンパスに通うには、如何せん時間がかかり過ぎた。二年生に進級する際、物件の探しやすいタイミングを見計らって、その年の冬に引っ越してきた。
都内に唯一つ残った都電荒川線の雑司ヶ谷駅の際に建っていたそのアパートは、通学にはすこぶる便利だった。多少時間に余裕のあるときなどには歩いても授業に間に合う立地の好さに加え、夏目漱石や竹久夢二、さらに泉鏡花などの墓がある閑静な場所だった。読書に疲れたときや考えがまとまらないときなどには墓地を散策した。
ただ、温かくなると蚊が出るのが難点だった。
毎週土曜日の深夜に催される隣室の饗宴に気が付いたのは、新学期の準備に忙殺されていた四月の上旬だった。
梁と柱の繋目が軋む音を耳にしたときは、てっきり地震かと思った。しかし、ニュースのテロップにも、地震速報は出てこない。強風に煽られているのかと思って窓の外に眼を遣ると、墓地の雑木は静かに佇んで、風はそよとも吹いている気配はない。
女の嬌声が漏れてこなければ、揺れの原因は判らず終いだった。
さほど気にするほどのことでもなかったのだろう。しかし、毎週末、決まって饗宴が繰り広げられるとなると、どうしても期待し、耳を欹ててしまう。すると、以前聞こえなかった小さな音も次第に鮮明に聞こえるようになってくる。
懸命に堪えているのだが、どうしても漏れてしまう吐息。猫が水を飲むときにたてるようなピチャピチャという音。布団の上で肌を擦り合わせる音。これらの幽かな物音までが耳に届く。
嬌声の主が、近くに在る小学校の音楽の先生だと知ったのは、その年の秋口だった。
十月の家賃を払いに、敷地内にある大家の所に行ったときのことだった。
「Iさん、申し訳ないんだけど、お隣の先生から『風鈴の音が喧しいのでどうにかならないですか』って言ってきているんですよ」と、家主の奥さんはすまな気だった。
その年の夏、大学のサークルの合宿で岩手県の遠野に行ったとき、南部鉄器の風鈴の透明感のある音色が気に入って、お土産に買ってきた。早速、軒下にぶら下げて音色を楽しんでいたのだが、秋口になっても、そのままにしていた。秋に入り風が強さを増して、時に台風などが来たときなどは、確かに喧しいほどだった。
とかく、自分の立てた音には無頓着で、他人の出す音には過剰に反応してしまうのが人の感覚なのだろう。
「そうですか。気が付かなかったなあ、すぐに仕舞います」と、頭を掻いた。
その女教師とは、一度だけ、廊下ですれ違ったことがある。小太りで、女性としては大柄だった。百六十センチを超えていたかもしれない。確かにこの身体で我を忘れてコトに励んでいると、アパートは年代ものだけに揺れは生じるだろう、と思わせる体躯だった。
その日はまだ暑い盛りだったので、女教師は短いスカートを穿いていた。スカートから健康そうな膝小僧が覗いていた。膝頭は両方とも赤く擦り剥けていた。
その膝の赤さが、饗宴の際に網膜に蘇ってくる。
膝頭が赤くなっているということは、女教師は後背位で交わっていることになる。両の肘と膝で身体を支え、後ろから男を受け容れる。愛の交感を夢中で続けていると、両の膝頭が擦り剥けて赤くなる。体育の先生ならともかく、音楽の先生が膝頭を擦り剥くことは、通常なら考えられない。
そんなことに想いを巡らしていると、カタ、カタ、カタと深夜に音がするたびに、後背位で交わっている女教師の嬌態を思い浮かべてしまう。
冬休みに帰省していた。正月くらいは顔を見せろと、母が強い口調で電話を寄越してきた。年が明けてアパートに戻ると、深夜、また小刻みな振動が始まった。一度仕舞った風鈴を取り出し、窓に下げてみた。すると、風鈴はリズミカルに、風もないのにチリリン、チリンと仄かな音を立て始めた。犬が遠くで鳴いていた。
風はそよとも吹く気配はない。もうすぐ女教師のすすり泣きが聞こえてくるだろう。
翌日、大家の所に田舎の土産を渡しがてら、遅れていた一月の家賃を払いにいった。
「あら、いつも気を使っていただいてすみませんね」と奥さんは気さくな笑いを浮かべ、そそくさと出てきた。
作り笑いで応えると、「そうだ、お隣さん、あの先生ね、急に引っ越すことになって暮れに移られたのよ。今度はなんでも練馬から通うんだって」と教えてくれた。
「引っ越した」って? 
だとすると昨晩の振動と女の嬌声、そして犬の遠吠えと共に鳴り続けていたあの風鈴の音は一体・・・。
 

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