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第二十話 ズボンの逆襲


子どもの頃、男の子はズボンしか穿けないのに、女の子はズボンとスカートの両方が穿けてずるいと思った。男の子がスカートを穿いてはいけないと誰が決めたのだろう。
しかし、「スカートをはいてみたい」などと言うと、「おとこおんなだ。こいつ、へんなやつだ」と思われて虐められるに決まっている。それで、もちろん恥ずかしさもあったのだが、言い出せないままずっとズボンを穿き続けてきた。
ズボンで一生を通すのも勿論ありだが、一度もスカートを穿かずに終わるのも何だかしゃくだった。
大学を出て会社勤めをして、週末には自由になる時間とお金ができるようになった。そこで思い切ってスカートを穿いてみることにした。
金曜日の会社の帰りに、わざわざ遠方のデパートまで出向いて買うことにした。
近所の洋品店で買って、「青木さんちの息子さん、近頃スカートを穿くようになったんですって、いま話題の性同一性障害だったのかしら。小さいときは普通の男の子となんら変わらなかったのにねぇ」と噂が立つのも困りものだ。
と云って、わざわざ遠回りしてやってきたのに、店員には変な奴だと思われるのもしゃくだった。
「今度、会社の忘年会の余興で上司とデュエットさせられることになりましてね。その上司が凝り性で、雰囲気を出すのに女装してこいと言われて、困っているんですよ」とお茶を濁して、プリーツの入ったウールのスカートと綿の長めのスカートを買ってきた。どちらも蝶の絵が入っている。ちょっと少女趣味かなと思ったが、いかにもスカートらしい柄だったので、躊躇することなく選んだ。
家族が留守の時を見計らって紙袋から引っ張り出し、恐る恐る穿いてみた。
股間がスース―して落ち着かなくもないが圧迫感がなく、大袈裟な言い方をすると「全き自由を手に入れた」というか、なんとなく解放感が味わえた。それと意外なことに、背徳感に近い後ろめたさでぞくぞくっと快感が身体を貫いた。
それ以来、週末の家族が出払ったときなどは、密かに室内はスカートで過ごすことにした。
そのうち、妙なことが起きるようになった。
最初は歳のせいかとも思ったのだが、どうもそうではないらしい。
うまく立ったままズボンを穿くことができなくなったのだ。
穿こうとするとズボンが足に絡みつく。
なんとか片足を捩じ込んでも、もう片方の口がうまく開かない。
力づくで穿こうとすると、バランスを失して転びそうになる。
それならばと座って履こうとするのだが、口が開かずなかなか足が入らない。
宥めすかしてやっと履く、ということが屡々だった。
その日、四苦八苦した末になんとかズボンを穿き、外出した。
いつものように近所の歩道橋を登って駅に向かう道を渡ろうとした。すると、いきなりズボンに足をとられ、もつれて転倒した。
倒れたとき、頭を打ち付けないように咄嗟に腕を前に出したので、肘を擦り剥いてしまった。ワイシャツの袖に少しだけ血が滲んでいる。埃を払って立ち上がろうとしたのだが、ズボンが水を吸ったジーンズかコーデュロイのようにゴワゴワしている。拘束衣を纏わされたように足の自由が利かなくなってきた。なんとか立ち上がろうともがいていると、汗が全身から噴き出してきた。
「なんとか渡らないと、こんなところにいつまでも横たわっているわけにはいかない」
そう思って、今度は自由の利く腕を使って身体を起こすことにした。両手を歩道橋の欄干にかけ、下半身を引っ張り上げようとした。
だが、上半身と下半身が別人のもののように感じられる。鉛でも充填されたかのように自棄に下半身が重い。どうやらズボンが自由を奪っているらしい。ズボンは左右の太腿を締め付け、ぴったりと両足をくっつけようとする。
ズボンに眼を落すと、チャックの口が開き、牙を剥いているように見える。両ポケットの差し込み口の所の刺繍が眼のように見えて、人の顔を思わせる。それもこちらを嘲笑っている顔だ。
やっとのことで階段を登り切った。
この程度の距離を登るのにこんなに難儀するとは、自分の歳を呪いたくなった。大腿部と脛は動きがとれなくても、足首は自由になる。そこで両手で手摺をがっちり掴み、足首を利かせて、つま先立ちして、と悪戦苦闘していると、身体がふっと軽くなった。
私の身体は強く握った手摺を支点にして弧を描き、歩道橋から真っ逆さまにクルマの行きかう道路に向かって落ちていくのだった。
落ちていく途中で揚羽蝶が一匹、眼の前を横切った。
「そうか、蝶が群を為して助けに来てくれるのか」と一瞬思った。
しかし、それは束の間の夢想だった。
揚羽蝶は一匹だけでひらひらと飛び去り、私はアスファルトの道路目がけて一散に落ちていった。
「即死か」
「調べてみましょうか」
歩道橋の上から声が降ってきた。
パトロール中の警官がちょうど居合わせたのだ。
足早に階段を降りる二人の足音がする。
「自殺じゃないかしら」そう呟くと、若い婦人警官のスカートから足が伸びてきて、爪先でトンと私の脇腹を軽く蹴った。
「痛いなぁ、何をするんですか」
怪訝な顔をしたのは警官も同じだった。
「大丈夫ですか。歩道橋から落ちるところを見たもんですから。あわてて駆けつけたんです。死んでやしないかと思って。手荒な真似をしてすみません。ご無事ならよかった」そう言って、警官は念のために私を警察署に連れて行った。単に躓いて転倒して落ちたのか、自殺なのか、根掘り葉掘り訊かれた。問題がないので帰されたのは夕方近くだった。
その日から、私はズボンを穿くのが怖くなった。しかし、ズボンも穿かずに外出することはできない。どうしよう。思案の挙句、それならばスカートを穿けば良いことに気づいた。
「思い切って行動すれば結果はついてくる」、誰かがそんなことを言っていたっけ。まさに私の場合もその通りだった。外出の際にスカートを穿いても、最初はどきまぎしたもののすぐに慣れて、そのうち人の視線も気にならなくなった。あれもこれも取り越し苦労だったのだ。
あれからスカートを穿き続けて十年。選ぶのはいつも蝶の柄だった。
不思議なことにスカートを穿くと気持ちや考え方まで幾分か女性的になる。次第に言葉遣いまでも断定的な口調は陰を潜め、人の話に耳を傾けるようになった。それまで自分はあまり他人の気持ちを忖度することなどなかったのだけれど、スカートを穿くと気持ちが少しだけソフトになるような気がする。今ではこれが本来の自分の姿ではないかと思うようになってきた。
と同時に困ったことも起きてきた。気兼ねなく付き合って来た同性の存在が急に揺らいできたのだ。それを確信したのは、久しぶりに会った親友(彼はもちろん男だ)を見たときだった。喫茶店で彼を待っているとき、ドアを開けて店に入って来る彼の姿を眼にして、私は懐かしさとともに不思議な胸のときめきを覚えた。
窓の外には一匹の揚羽蝶がひらひらと舞っていた。

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