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第五十話 ぺーター・ブリューゲル的自販機

駅前で産業道路と旧街道が交差している。そのせいなのだろうか、いつも長い信号待ちを強いられる。
その駅で降りるのは本当に久しぶりだった。この前降りたのは学生時代だったから、もうかれこれ二十年近くになる。都心の他の駅と違って、以前から広い道路が縦横に走っているので、街並みがすっかり様変わりしてしまったということはない。二十年近い年月が経つにも拘わらず、少し小高い駅から眺める風景は往時の面影をそこここに残している。
「あのぉ、済みません」と背後から声を掛けられた。若い声だ。
振り向くと、いかにも神経質そうな短躯の学生風の男が、小さな箱を両手で持って立っていた。
「あのぉ、済みません。私たちはカンボジアの恵まれない子どもたちを救う活動を行っています。是非、ご寄附をお願いします」と呼び掛けてきた。周囲を見渡すと、数人の若者が同じように募金活動に勤しんでいた。
私は素性の定かでないこの手の寄付には応じないことにしていたので、無視を決め込んだ。すると男は眼鏡越しに「私たちは豊かな生活を送っていますが、カンボジアでは今日も食べるものがなくて飢えて死ぬ子がたくさんいます。どうか僅かでも結構です。ご寄附をお願いします」としつこく纏わりついてきた。
確かに東南アジアで、それも戦火で行き場を失った身寄りのない子どもたちは貧しい生活を余儀なくされる。しかし、温暖で、自生する果物も豊富な東南アジアでは、たとえ所得は低くても、野生のバナナやパパイアなど、どうにかこうにか食べ物を工面することはできる。それに世知辛い日本の都会と違い、子どもたちが困窮していると、周囲が何かと世話を焼いてくれるものだ。私も何度か東南アジアに行く機会があったが、路上で物売りをしている子どもは、どの国の大都会でも例外なくいる。それはそうだが、彼の地で飢え死にする子どもの話は終ぞ聞かなかった。
そこで、この募金をやっているのはどんな団体で、募金の許可は取っているのか、と訊いてみた。
すると男は一瞬怯んで、「嫌ならいいです」と捨て台詞を吐いて隣のビジネスマンに募金箱を向けて、「私たちは豊かな生活を送っていますが、カンボジアでは今日も食べるものがなくて飢えて死ぬ子がたくさんいます。どうか僅かでも結構です。ご寄附をお願いします」とやり始めた。
私と若い男との先程の遣り取りを聞いていたのだろう、そのビジネスマンは、やおら、「お前たち、誰の許可を取ってこんなことをやっているんだ。どうせ訳の分からない宗教団体か何かなんだろう」と食って掛かった。
その剣幕に驚いたのか、いかにも小心そうなその若い男は「誰にって、私たちは上から言われてやっているだけですから、何も知りません。文句があるなら上に言ってください」と、しどろもどろになりながら返答をした。
その時、信号がぱっと赤に変わった。
私はすぐに横断歩道に一歩足を踏み出した。特段急いでいたわけではなかったが、先程の遣り取りにすっかり気分を害してしまったのだ。
それ以来、気にして観るせいか、街のあちこちでカンボジアの飢餓に苦しむ子どもたちの支援だの、捨て犬の保護だの、難病の子どもの治療費のカンパだのと、募金を募る若者たちの姿が目に付くようになった。
それから一年が過ぎた。
また私は産業道路と旧街道が駅前で交差する駅に降り立った。長年連れ添った妻との離婚の調停のため、弁護士事務所に行くところだった。
一年前に来たときは、あれほど屯していた募金活動の若者たちの姿はぱったりとなくなっていた。それでも、何処かに一人ぐらい居はしないかと辺りをきょろきょろと見回した。すると、改札に向かうスロープに沿って並んでいる見慣れない自動販売機が目に入った。通常の飲料の自動販売機と背丈は同じだが、幅が半分くらいしかない。それが数個並んでいる。近づいてまじまじと観てみると、それらはどれも寄付を募るマシンのようだった。カンボジアの飢餓に苦しむ子どもたちの支援をお願いしますだの、捨て犬の保護にご協力をだの、難病で苦しむ○○ちゃんの治療費のカンパだの、メッセージが目立つようにサイネージに流れている。自動募金機らしい。
この一年で、募金活動もここまで進んだのかと、妙な感心をしていると、コンビニから出てきた若い女性が自動募金機に釣銭を投入して、何やらレシートのようなものを受け取っていた。
どういう仕組みになっているのだろう。たまたま赤信号が長く続いていたので、その自動募金機を仔細に観てみた。管理責任者として駅名と大手都市銀行の名前が記載されている。それにしても、どんな機能があるのだろう。ちょっと悪戯心が湧いてきて、小銭で試してみようとした。財布にはちょうど小銭が三百円ほど入っていた。投入口に入れると、「ご寄附有難うございます。募金される団体のボタンを押し、領収書が必要な方はAのボタンを押してください。領収書が発行されます。不要の方はこれで終了です。ご寄附有難うございます」と音声ガイダンスが流れた。
私は三百円程度の領収書が入用なわけではなかったが、ものは試しでAのボタンを押してみた。すると、紙幣の投入口の下から幅広のレシートのような紙切れが出てきた。そこには「領収書 金三百円也 ○○への寄付として確かに受領しました」と、団体名とともに印字されていた。
なるほど、便利なものだ。それにあの押しつけがましく胡散臭い若者と不愉快な遣り取りをせずに寄付ができるとは、なかなか考えたものだ。その上、領収書まで発行されるとは・・・。
やがて街中の至る所にこの手の自動募金機が設置されるようになった。暫くすると、一通り自動募金機も出尽くした観があった。詳しく調べたわけではないが、自動募金機もいくつかのグループに分類できるようだった。難民や発展途上国の子どもたちの支援を訴えるNGOのもの。動物愛護団体のもの。難病の患者の支援を求めるもの。それらが代表的なものだった。それに、それらを隠れ蓑にして、宗教団体の資金集めなども一大勢力となっているようだ。
街はいつの間にか飲料の自動販売機は陰を顰め、自動募金機にすっかり席巻されてしまっていた。
しかし自動販売機を管理する飲料のベンダーも手を拱いているわけではなかった。人工知能を搭載した新型の自動販売機を投入して、反撃に出た。このロボット型の自動販売機は横幅が通常のものの二倍半はあるかなり大きなものだ。私がそのロボット型の自動販売機を駅で眼にしたのはつい最近のことだ。全体がのっぺりとしたグレーで、近づくと正面の外装の金属板だとばかり思っていた部分がパッと明るくなって、温かい飲み物の画像が表示された。お茶やコーンスープなど、身体の温まりそうなものばかりだ。なかには炭酸系の飲料も混じっていた。近づくと客を画像認識して性別や年齢を判断し、その日の気温と照らし合わせて最も買いそうな商品を選んで表示するらしい。
やがてこの最新鋭の自動販売機の投入で息を吹き返したベンダー会社は、自動募金機との間で場所の取り合いを始めた。それを観ていた宗教関係者が自動お布施ボックスを開発して設置し始めた。
終いにはベンダー会社、自動募金機設置のNGO、宗教関係者の間で三つ巴の場所の取り合いが始まってしまった。設置場所も無限に在るわけではない。壮絶なバトルが展開された。昨日設置された自動募金機が翌日にはコインの投入口を塞がれたり、今日置かれたばかりのベンダー会社の自動販売機が倒されていたり、明日稼働予定の宗教関係者の自動お布施ボックスに悪戯書きがされていたり、修羅場が暫く続いた。しかし、勝敗の帰趨は明白だった。
闘い済んで日が暮れて、勢力地図は確定した。宗教関係者の自動販売機が版図を制圧し、暫くはこの状態が維持された。
そしてまた私は久しぶりにその駅に降り立った。すると駅前の様相は一変していた。改札に向かうスロープに沿って並んでいる見慣れない自動販売機が目に入った。通常の飲料の自動販売機と背丈は同じだが、幅が三倍くらいある。いつか何処かで見たシーンだなと思った。デジャヴではないかとすら思ったほどだった。それは自動販売機を売る自動販売機の列だった。

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