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「ほどほどに。」~躁鬱人生の波を乗りこなせ~


「双極性障害」それは私を苦しめ、そして大切なことに気づかさせてくれた。

小中高と私は運動部に所属し運動神経も良く勉強もある程度できるほうだった。キャプテンやリーダーを務めることも多く明るく生き生きとし将来に希望を抱き努力することもできて自分のことが好きだった。まさに充実している人生を歩んでいた。

変化が現れたのは、高校2年生の秋。理由は覚えていないが初めて彫刻刀で腕を切るという自傷をした。ただ、そのときはその行為がリストカットという自傷行為の自覚はなく傷も浅かった。腕を切るとモヤモヤしたよくわからない感情が消え次にやらなければならないことに向かうことができたのであった。そのまま1年間が経過し誰にも気づかれることなく環境も変わっていき、いつの間にか自傷行為を忘れることができた。

私は、作業療法士を目指す学校に入学した。大学生では高校のときのわけのわからないモヤモヤが嘘のように消え、サークル活動、勉強、バイトと全てにおいて一生懸命にやったし精一杯やることができた。そしてそれが楽しかった。しかし、いつしかそれは気づかないうちに超ハードスケジュールとなっていた。朝は6時30分に家を出て8時から学校にいて授業が始まるまで勉強をした。授業終わりはサークルに出てその後も21時まで学校で勉強をし23時に家に着く。家に帰ってからも勉強したりランニングに行ったりした。サークルがない日や土日は必ずと言っていいほどバイトを入れていた。睡眠時間は4時間。こんな生活を1年以上続けていた。面白いぐらいに何でもできた。頑張ることは良いことで、できる自分が誇らしくてハードスケジュールをこなしていくのが楽しかった。「時間は自分で作るもの」というのが私の信念だった。

違和感を覚えたのは大学2年生の後期が始まった頃だった。なんとなく調子が出ない。会話が頭に入ってこない。訳のわからないモヤモヤに覆われて生き苦しい。逃れるために再び自傷行為をした。
バレないように切るのは足首だった。
「でも大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」と言い聞かしハードスケジュールを変えることはなかった。

ある日、担任の先生から面談に呼び出された。面談内容は、健康状態と生活の様子についてだった。授業中の様子などから先生がおかしいと気付いてくれたのだ。後から聞いた話では、先生には足首の傷がバレていたそうだった。それを知らない私は、特に問題はないの一点張りだった。本当にただ疲れているだけだと思い込んでいた。そう思い込みたかった。ここで負けたらだめだと思っていた。この頃の私は誰かに頼る、心をゆるすということがものすごく苦手だった。それにもかかわらず、先生方は毎週のように面談をしてくれた。次第に安心感を覚え唯一本音を話せるようになった。
本当はこの苦しみに気づいてほしかったのかもしれない。ある日の面談で受診を進められ病院まで探してくれた。行きたくなかったがこの不調をどうにかしたかった私は病院にかかることにした。

親には何も伝えないし知られたくないから一人で行った。診断は、うつ病だった。なんとなく自分もそんな気がしていたが受け入れたくなかった。それから薬を飲みながらの生活が始まった。しかし、一向に良くならず受診の度に増えていく薬。薬の副作用でふらふらになることもあった。そんなとき、大学の付属の病院ができたため転院することになった。

そこでの診断は双極性障害であった。うつ状態とその真逆の躁状態を繰り返す病気だ。今までの生活を思い返してみるとまさに自分に当てはまっていた。心のどこかで安心したのと同時にやっぱり私精神疾患なんだ。しかも長期にわたって薬を飲み続けなければならないんだという認めたくない気持ちもあった。

ここで私にはやらなければならないことがあった。それは、親に精神科に通っていること、病気であることを伝えなければならなかった。それは私にとってとても勇気のいることだった。悲しませるのが嫌だった。心配させるのが嫌だった。どんな反応されるか怖かった。口では伝えられなかったから薬の説明の紙を見せて「話せるようになったら話す」とだけ言った。母は泣きながら「わかった、待ってる」と返してくれた。それ以上は追求せずにただ抱きしめてくれた。

診断が変わったことで薬も変わった。それでも、うつ状態はかなりつらく動けない日があった。
思考も悪い方へ悪い方へと傾きあらゆることに自信がなくなった。身体も怠く起き上がることができない。それでも無理して学校に行って学校で横になって休ませてもらう始末。今考えるとあり得ないほど迷惑な学生である。時には眠れないまま学校に行き倒れた日もあった。この頃はとにかくお金がないような気がしてならない貧困妄想があり、お昼を買うことができずに昼食は取らないことが多かった。また、駅で気を失い救急車で搬送されたこともあった。そのときベッドから見た母の顔は忘れられない。

一方で躁状態も出現した。
あんなに悩んでいたのが嘘かのように自信に満ち溢れ何でもできるような気がした。気分も高まり貧困妄想の反動からか、10万円以上の大きな買い物も何の迷いもなくしていた。また、LINEを開いては久しく連絡を取っていない友人に片っ端からメッセージを送りつけた。勉強はあまり頭に入ってこなかったものの、意欲はありむしろ勉強もスポーツもバイトも忙しくやりたかった。やりたいことやアイデアがどんどんと頭に浮かんだ。やっと薬が効いて元の自分に戻れたと思っていたがそれは罠だった。躁状態であることは後からしか気づけない。

その後に襲ってくるのはとてつもない鬱だった。躁状態のときの逸脱行為や自分の振る舞いを恥ずかしく思い後悔した。躁状態からの急激なうつは言葉にできないほど何ともつらいものだった。

うつ状態では躁状態の自分の行動が理解できず、躁状態ではうつ状態のときの自分を理解できない。どれが本当の自分なのかわからない。なぜ生きなければならないのだろうか。もう楽になりたい。その一心だった。一方でそう考えてる自分が嫌でたまらなくてでもどうすることもできなかった。

ついに私は行動に移してしまった。
明け方、自宅近くの橋から湖に飛び降りたのだった。飛び降りたときのことはよく覚えていない。しかし、身体が水に着いた瞬間我に返ったのだった。必死でもがきどうにか岸にたどり着いた。そして後から自分の行為が怖くなって足が震えていた。

そんな状態ながらも周囲のサポートのおかげで進級することができ病院実習をむかえた。結論から言うとその時の私に実習は乗り越えられなかった。大きなうつ状態に入り、頭が働かず文章を読むことができなくなった。人の話も何を言っているのか理解できなくなった。ご飯を食べても味がなく食欲もなく体重は10キロ以上落ちた。お風呂にも入ることができなかった。頭の中では死が繰り返したたみかけてくるのであった。
そんな状態で実習を続けられるわけがなく、学校の先生から実習の中断、つまり留年が言い渡された。悔しくて悔しくてたまらなかった。一生懸命にやってたのにそれでもどうにようもならなくて泣き続けた。そんな私をみて主治医が告げたのは入院だった。通院していた病院は満床であったため違う病院への入院となった。

初めての入院。
初めての閉鎖病棟。
病棟の出入り口には鍵があり自由に出ることはできない。持ち込み品もひもや充電コードが危険物となるため持ち込めない。もちろんテレビはなく、携帯も病院管理。はじめは個室の病室が割り当てられた。病室のトイレはむき出しで扉がなく天井には監視カメラが取り付けられていた。こんな状況でも入院という強制力のなかで「もう頑張らなくていいんだ」という安心感があった。入院して1週間はほとんど寝たきり状態であまり記憶がない。ただ、真っ白い天井を眺め

「人生終わった」

そう思った。

そのころ社会は、コロナ禍真っ最中。面会は1日15分のみ。母は1時間半かけて病院まで来てたった15分の面会をし1時間半かけて帰るという生活を1カ月間毎日してくれた。本当にありがたくて、うれしかった。看護師さんも優しくてよく声をかけてくれる。年の近い同じ双極性障害の友達もでき自分だけじゃないと勇気をもらった。他の患者さんに折り紙を教えてすごく喜ばれたことは忘れられない経験となった。

何度かの外出、外泊を繰り返し家での日常生活に慣れさせながら退院を決めた。入院期間は気づけば1ヵ月になっていた。退院をしてからも気持ちの整理に時間がかかった。留年して休学、友達と一緒に卒業できない、今までの頑張りが泡となって消えたこれらの現実が私を苦しめた。

退院後半年間の休学に入った。この時点の私の状況は、大学3年生の2月の実習を途中で断念して入院。断念した実習の単位をとるために留年しもう一度3年生をやる。しかし、実習以外の単位はすべて取得しているため前期は休学し後期から復学となる。

さぁ、休学中は何をしようか。
せっかくの休学期間。無駄にしてはいけない。意味のある時間を過ごさなければならない。休学とは字の通り学びを休むという意味なのにここでも私はしなければいけない思考に陥り、焦るばかりだった。今まで忙しい毎日で自分のために自由に使える時間があまりなかったため、いきなり半年間の何もない時間を与えられて喜びよりも戸惑い、不安の方が大きかった。

この頃には体調もかなり回復していた。少なくても一日中寝込むことはなくなっていた。双極性障害の回復には休養をしっかりと取ることが重要になる。周りも「ゆっくりしてね」「ほどほどに」と言ってくれる。しかし、私にはゆっくりするとはどういうことなのかわからなかった。今ではありがたい言葉だと思えるが当時はこれらの言葉が無責任な言葉のような気がして苛立ちすら覚えた。それだけ今までの生活の中で何事も精一杯やるのがいいことでそこを目指すのが私にとっての当たり前だった。それを変えてしまったら自分ではなくなるような気がした。そのため、何にもしなくてもいい時間がとても居心地悪かった。バイトも学校も何もない自分。同級生たちは実習に行っていたり、勉強したり、バイトを頑張ってるなかで何もできていない自分。社会からおいていかれてるような気がした。自分が価値のない人間に思えて仕方なかった。

そんな私を両親はよく外に連れ出してくれた。大学生になってから実家暮らしではあったが生活リズムが異なり、「ただいま」と「おやすみなさい」を同時にするような生活だった。そのため、両親と一緒に出掛けることがいつの間にか無くなっていた。久しぶりの家族でのお出かけはいつしか週末の恒例になった。
私のために人込みを避けた自然豊かな場所に連れて行ってくれた。今まで忘れかけていた家族のあたたかさを思い出させてくれた。

また、何かしなければという思いからいろいろなことに挑戦した。まず始めたのはクラフトバンドでカゴを作った。3週間ほどで完成した。その後折り紙を始めた。折り紙講師という資格を取るために100種類の折り紙を折り資格を取得した。危険物取扱者乙4の資格を父に勧められ取得した。住環境コーディネーター2級を取得した。学校に自主的に行って国家試験の勉強をした。資格の勉強は楽しかった。今まで頭に入らなかったことがクリアに頭に入ってくる感覚がうれしかった。アルバイトも再開した。双極性障害は入院をしたことで治った。そう思った。

ただ、今ならわかる。これは軽躁状態だったのだろうと思われる。
やはりその後うつへと落ちていった。薬が効いていることもあり、食欲はあるが上手く眠れない、最低限のことは出来るのにいつも憂鬱感があるなど凸凹としたうつ状態だった。前回のうつとはまた違うつらさ。何よりも希死念慮が酷かった。死にたい、生きていたくない、感情に振り回されながら生きるのが嫌だった。衝動的にもなり自分をコントロールすることができなくなっていった。

ある日の夜、死にたい衝動に駆られた。頭がパニック状態になり勢いのまま本棚の本をすべて床に投げ捨ててしまった。その物音で隣の部屋で寝ていた両親が慌てて部屋に入ってきた。私は泣いていた。そしてそんな私と散らかった部屋を見て母も泣いていた。きっと両親も怖かっただろう。どう接していいかわからなかっただろう。そうして私は再び入院となってしまった。

入院生活も前半は穏やかにはいかなかった。死にたい衝動から自傷行為がやめられないでいた。泣きながら自傷行為をして看護師さんが来る。頓服薬を飲まされて自傷できないように手足を抑え込まれるのだった。抑え込まれると今度は身動きできなくてパニックになっていた。しかし、症状は徐々に良くなっていき入院生活が1カ月となり退院することができた。そのころには、自傷行為をやめることができた。

こうして、休学期間は終わりを迎えた。はたしてこんな過ごし方でよかったのだろうか。もっと出来ることはなかったのだろうか。休学期間で私は少しでも変わることができたのだろうか。しかし、今ではこの休学期間があったからこそ高すぎるプライドを手放すことができたし冷静に物事を判断できるようになった。そして、休むことの重要さを知った。人生少しぐらい休んでも意外とどうにかなるということを学んだ。

その後私は、中断した実習を乗り越え4年生となり国家試験の勉強に励んだ。ここでもやはり双極性障害の波は私を襲ってきた。順調に勉強が進んでると思った矢先の鬱。霧に包まれ働かない頭に身体のだるさ、理由もなくあふれる涙、すぐに死に囚われる。でも、この頃の私はもう一人ではなかった。友達も先生も家族も病気を理解して適切に接してくれた。薬は増えたけど入院は回避できた。何よりもこの2年間で自分のつらさを言語化できるようになったことが大きいと思う。その背景には、学校の先生方のサポート、友達のやさしさ、家族の安心感があった。

そして、無事卒業。作業療法士の国家試験合格をもぎ取った。

今までを振り返ると私は恵まれていることに気付かされる。両親は、私の気持ちを大切にしてくれた。1年留年するのにも学費がかかる。それでも学校に通い続けさせてくれた。バイトもせずに朝遅くまで寝ている私をあたたかく辛抱強く待ってくれた。また、最初に私の異変に気づき声をかけてくれ、どこにも吐き出すことのできない「死にたい」という声に耳を傾けてくれた学校の先生。その存在に何度も助けられた。先生は、近すぎず遠すぎない距離感で私をいつも見守ってくれた。本当に周囲の助けのおかげで私は今を生きている!

「ほどほどに」それは先生や家族、友達みんなが私にくれた温かい言葉の贈り物である。何度も言われたこの言葉は初めは受け入れられなかったが今では双極性障害と上手に付き合う鍵となっている。「時間は自分で作るもの」という言葉から「ほどほどに。」という言葉が大切な言葉になった。双極性障害により多くのものを失った。現在もこの病気さえなければと思ったり、感情の波に支配される自分が嫌になることがある。普通に働いている同級生をみて羨むこともある。しかし、それらと引き換えに周囲の人のあたたかさや自分を見つめ直す時間を得ることが出来た。あらゆる固定観念に雁字搦めになっていた人生から解放された。そして双極性障害という病気は消えないけれど、休む暇もなかったあの頃に比べてずっと健康だと思う。

私の好きな歌の歌詞にこんな言葉がある。「思い通りの人生じゃないとしてもそれもまた幸せと選ぶことはできる。」まさにこの通りだと思う。私の人生は双極性障害を機に変わった。つらいことも苦しいこともいっぱいあった。それらは不幸なことだったのかもしれないが、今こうして生きていられることやまわり道をしたことさえも幸せだと選ぶことはできる。この3年間、沢山の人に心配をかけた。だからこれからは安心してもらえる人、安心感を与えられる人になりたい。自分も安心感を与えられて救われたように。そして「ほどほどに。」を大切にして躁鬱人生の波を乗りこなしていきたい。

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