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短編小説 『星を見る』

彼女はいつも悲しげな顔でそこにいた。

僕はいつも通り「やあ」と声をかけ、彼女の隣に腰を下ろした。
周囲の虫が秋の声に変わる頃だった。
今日は濃灰色の雲が月を遮っていて、普段よりも夜の気配が肌にまとわりついているように思う。

僕の声に気づくと、彼女は微かに顔を上げた。
そして静かに微笑む。

その微笑みの中にはやはり悲しみを帯びたものが含まれていて、それはとても神聖なもののように感じられた。

夜に浮かぶ星のような笑い方だった。
灯りのないこの場所で、確かに彼女は星であった。

「今日は酷い一日でした」

僕が話し始めると彼女はまた顔を下に落とす。
そうして時々、小さく頷き、たまに眉を微かに下へ滑らせて笑う。
感情の起伏が少ない女性だった。
彼女が口を開いて笑うところも、大げさに頬を震わせるところを僕は一度だって見たことがない。

「星の見方が最近になってようやくわかりました」

僕が話す内容はまちまちだった。
大体はその日一日の出来事が多いのだけれど、時折普段は決して口にしないようなロマンチシズムに溢れたことも話す。
彼女の前では不思議なくらい心が落ち着いていて、そのせいなのかもしれない。

「貴女は星の見方を知っていますか?」

彼女は小さく首を横に振った。
僕が見る彼女はいつも少し下を向いていた。
そこに何かあるようにじっと見つめている。
彼女には何かが見えているのかもしれない。
ある時、僕も彼女に倣って見つめてみたけれどすぐに飽きてしまった。
何もないところに何かを見出すには、僕はまだ何も知らないのだろう。

「星を見るには少しコツがあります」

周囲の音に馴染むように僕の声は自然と小さくなった。

「大切なのは、自分と星との距離を見誤らないことです。星の輝点となる世界と、目で見ている自分の世界、そして星を感じる自身の内側の世界」

彼女は動かない。風も吹かない。虫の鈴が周囲に溶けている。
今、この瞬間に僕ら二人を認識している人間は誰もいない。
世界で二人だけだ。
僕ら二人だけ。

「この三つは互いに独立しあっていて、寄り添ってもいないし、遠ざけているでもない。ただ三つ並びあっているんです。だからどれか一つを抜くことも出来ないし、他所から何かを足すことも出来ない。三つの距離が等間隔にあるだけです」

彼女はゆっくりと顔をこちらに向けた。美しい顔だった。
切れ長の瞳の中に星が見えた。
彼女の瞳の中に宇宙がある。
星が散りばめられている。
その星の一つ一つに世界があって、肉体と精神とその二つを結ぶ世界がある。全てが彼女の瞳から始まったのだ。
僕はそれを幻視していた。

「これらがうまく調和すると、星がよく見えます」

彼女は再び小さく微笑んだ。蝋燭に火を灯したような静かで美しい笑い方だった。その中に悲しみの星が潜んでいる。

「これは別に星に限った話ではないのかもしれませんが、星が一番相応しいような気もするんです。自分から一番遠いものをうまく見られるようになれば、ずっと生き方が楽になります」

僅かに頷いた。
その瞳が微かに水気帯びたのには一体どんな意味があるのだろうか。
僕は彼女を見つめ続けた。

「貴女と僕とは、並びあった星のようなものです」

再び頷いた。
ここから見れば近い、けれど星々の間には確かな距離がある。
決して埋まることのない遠さがある。
その途方もない距離を感じている。
隣り合う僕らの間には宇宙がある。
そして互いの世界を遠くから見つめている。

「僕はこれから遠くへ行きます」

その瞬間、彼女の悲しみの色が強くなったように見えた。
そうして今、自分の中にも悲しみの色が滲み出ているのを自覚した。

「僕はこれから遠くへ行かなければなりません」

彼女は頷いた。
その理由を僕以上に理解している気がした。
明日からも彼女はこの場所でじっと座っている。

彼女の悲しみは消えることも癒えることもないのだろう。
幾つもの時間をかけて悲しみは彼女の一部となった。
夜が深まるように。

「星の見方を思い出してください」

僕はゆっくりと立ち上がった。
小さく身体を撫でた風は確かに秋のものだった。
その肌寒さと、今、心に満ちているものはとても似ているような気がした。

「僕が星を見ている時、貴女も同じように星を見ていることを思います」

空を見上げる。彼女がそれに倣った。
星は見えない。けれど確かにあの雲の向こうにある。
それでいい。それでいいのだ。
目に見えるものだけが全てでは決してない。

「それが」

僕は彼女を見下ろした。彼女は僕を見上げていた。
僕の視線のずっと奥には、彼女が見続けていた大地があった。
その視線のずっと奥に、星が見え続けるのなら彼女はこの先も大丈夫だろう。

「それが貴女のために出来る、僕の全部です」

そう言って僕は歩き出した。

夜はずっと深くなっていて、あれほど遠くで聞こえた周囲の音も今ははっきりとしていた。

少しして、僕はある予感を持って振り返った。
彼女はそこにはいなかった。

暗闇に慣れきった目に、小さな墓石が見えた。
僕は静かに微笑んだ。
星は今、確かに僕らの上で輝いている。
それでいい。
それだけでいい。

星を綺麗に見られる夜だった。

貴方のその気持をいつか僕も 誰かに返せたらなと思います。