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作為と無作為の狭間.

まさか自分が、将来デザインするという事を仕事にするとも思ってなかった。故にデザインという事を学んだ事がない!故に庭のデザインを始めた頃はやり方が分からなくて、他人のデザインの良い所を上手く組み合わせて、自分流みたいなことをやっていたように思う。要するにパクリである

!パクリが上手かったのかもしれない。あの頃はあの頃で、良い物を作っていたなぁ~っと今振り返ってもそう思う!ただ、あこがれていた誉め言葉は「カッコ良いデザインだね」だとか、「斬新なデザインだね」とか「きれいだね」とか・・・・・・・・・。パッと見てどう思われるかに重きを置いていたように思う。

何時頃からなのか、人の作るものに感動をしなくなったような気がする。いくら凄いデザインでも、カッコよくても、斬新なデザインであっても、一瞬は「良いなぁ~」っと思うのだが、長続きがない。自分のデザインもすぐに飽きる。だから、より新しい物を、よりカッコいい物をと探し続けたし、自分でも何時かそんなものが生み出せるとも思っていた。

生み出せるはずもないのだが・・・・・・。

人が作りだすアートや芸術といった物は、奇麗やカッコいいという事に理由が必要な気がして、あんまり頭の良くない僕は考える事が苦手なので、アートや芸術という事に興味があまりない!日本庭園も同じで読み取るのが難しすぎて若干苦手であったりはする・・・・・・。(昔は勉強の為よく見に行きましたが)

決してアートや芸術、日本庭園など否定しているわけではなくて・・・・もっと簡単に、誰が見ても感じられる・・・・なんか、本能に問いかけてきているような物が、考えるることも無く純粋に良いなっと思う!

作為を読み取るのが下手なだけだと思う・・・・・・。

その点、自然という無作為のアートは簡単である。そこに行けば誰もが簡単に良いと思えるのだから。しかも飽きることも無く・・・・・・・。

春の桜・・・・夏の海・・・・秋の紅葉・・・・冬の雪景色・・・・・毎年同じ景色なのに楽しみにしている。そしてその景色を背景に色々な楽しい物語が生まれる。自然の作り出す無作為なアートに何故か人は惹かれる。

その時感じた自然への圧倒的敗北感・・・・・・。自然には勝てない!そう思った。そのころからだと思う、自分の作る庭にも自然を多く取り入れるようになったのは・・・・・・・・。勝てないのであれば、力を借りよう・・・・・。樹に石に力を借りる事で、自然の作り出す無作為のアートに近づけるのではないかと、そう思って庭を作り続けている。

ただし、人が携わっているという限り・・・・無作為のアートにはなり得ない。私が目指すところは・・・・「作為と無作為の狭間」・・・・

庭にそんなデザインを取り入れて行けたらと思っています。

KATO

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