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今日で11年。

今日で2011.3.11からちょうど11年になる。そして、今年はちょうどあの日、あの時間と全く同じ時間がやってくる。


1.あの日とそれから数日間の事

僕はあの日、普通に小学校に通い、いつものように先生とケンカしたり友達と掛け算の対決をしていた。そして、ある”異変”を感じたのは、終礼前の掃除の時間になってだった…

「あっ…なんか揺れてるな…」そう感じたのはどうやら間違っていなかったようだった。その後、突然先生が顔が真っ青になって、慌てて職員室に集まっていく光景は今でも忘れられない。そして、校内放送で校長がこんなことを言っていた。

「東北地方で大きな地震がありました。みなさん、下校するときはなるべく高い所を使って下さい!」

大分県の田舎の小学3年生のチビにも、その声から「本当に東北で異常が起きている(こんなまともな感性では無いけれど)」という事がそこでハッキリと理解できた。そして、従兄弟の弟と一緒に帰宅。祖父がテレビを見ていたので、いつものようにそこに目をやった。すると、そこに待っていたのは、到底自分が知っていた「東北地方」とは想像もし難いものだった…

ヒビ割れた道路、燃えるコンビナート、崩れた建物、そして、フィクションを見ているのかとしか思えない「津波」。そして、流された街に車や船。「俺、今、夢見てるのかな…」その日の夜は現地の人の事を思い、胸が痛くなっていたと思う反面、空想上の出来事だと思い込んでいた自分がいた。

そこから約3〜4週間程、テレビでは震災報道で持ちきりだったはずだ。当然といえば当然の話だが、日を増すごとに感じる「悔しさ」と「不安」。大学受験期にもこのような不安は受験日と合格発表日までに生じると思うのだが、既に小学3年生の時に初体験していた。そこから、時間がある時に「自然災害」について考えるようになった。


2.昔、画面の前で見たものの答え。そして、復興過程を歩みつつある10年後の「宮城県」

それから10年後、2021年に18歳の大学2年生になった自分は、7月下旬に趣味の関係で宮城県に行く機会を得た。そして、福岡空港から仙台空港へ。早速着いて思ったのは「ここで、本当にあんな事が起きていたのだろうか…?」それくらい空港周辺は元通りに戻っており、活気付いていたからだ。

そこから2日間は専ら観光に費やしたのだが、観光中にも震災を感じるモニュメントに遭遇した。様々あったが印象に残っているのはこれだ。

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これは自分のインスタに当時投稿した宮城県の観光名所「松島」で撮った写真だが、身長とほぼ同じくらい(1.7〜1.75m)の高さだった。(ただ、内洋であった為、被害は他の地域と比較すれば少なかったようだ。)

もし、防波堤も何も無く、この高さの波が来て、飲み込まれた場合、呼吸が出来なくなるのは間違い無いだろう。そして、建物なんかも軽々しく破壊していくことも恐らく間違いない。

観光地・松島。自分が行った時には既に綺麗な街並みを取り戻していたものの、当時、どうなっていたか。この石碑を見ることによって想像することが出来た。

最終日。仙台市内のホテルを早めにチェックアウトし、空港に足速に戻った。そして荷物を預け、手提げかばん一つ持って空港の外に出た。

まずは、事前にリサーチして、興味があった場所に行った。そこは個人の民家が震災当時のまま残されていたものだったが、その建物を発見した際の体全身を駆け巡った衝撃は今でも忘れられない。

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それがこの建物である。もちろん、中に入ることは出来ないのだが、外観を見ればすぐに分かるだろう。

一階は愚か、頂上部の瓦さえ崩れているのである。この辺りを襲った津波の高さはおよそ3m。しかもまだ海岸付近とあって、さらに高かった可能性もある。

「これが…津波…」近くに石碑があり、解説を読みながら思わずそう呟いてしまった。

そう、正しくこれが、11年前にテレビの向こう側にあった「真実」だった。


その後、「千年希望の丘」という震災後に設けられた高台の避難場所を見て回り、交流センターを訪れ、当時、仙台空港で起きていたことの資料を全て見させて頂いた。ほとんどは納得いく話だったのだが、ただ一つだけ予想外だったのは空港が比較的早くから復旧していたことだろうか。これは知らなかったし、衝撃を受けた。輸送機関の復活。これほど現地の方々にとって心強かったものは無いだろう。

そして、空港の海沿いを北へおよそ2キロ。閖上町というところに辿り着き、ある施設を訪ねた。

そこで知ったのは「閖上中学校」の話。映像や管理人の方のお話を聞いた。以下、その内容である。


3.11当日、学校では卒業式が開かれており、震災が起きた時間にはみんな家に帰り着いていたらしい。そんな時に発生した地震。パニックになるのは当然なのだが、津波が来るなんて想像もできない。海沿いに住んでいた生徒たちや保護者は放送通りの避難誘導に従い、地域の公民館を目指した。だが、それが仇となり…


この話を聞いたときに、自分は涙が止まらなかった。救えるはずの命を「調査不足」で救えなかったのだ。なぜ、あの時、適切な判断が下されなかったのか…

答えは分かるが、あえてここでは書かないようにしておく。

そして、学校に残っていた生徒たちの遺品も見させて頂いた。吹奏楽で使っていたであろうクラリネット、今日も卒業式で履いていたであろう上履き、生徒がリュックを軽くしようと考えた置き勉の資料。どれも、普通の営みが行われていたとしか思えないものばかりだった。そう、昨日までは。

ちなみに、中学校にも高い津波が押し寄せたが、3階に避難していれば助かったそうだ。

その後、市内の市場からバスを使い、空港最寄りの駅に行った。途中で、立ち並ぶ家、そして移転した閖上中学校を見た。また、バスに乗る前に慰霊の石碑にも訪れる事ができた。右真ん中の写真が石碑に該当するが、この頂点の高さが津波到達点に当たると管理人の方が言っていた。そして、何よりも忘れない言葉が一つある。

「街は復興しているかもしれないけれど、傷心した人々に傷は永遠に癒えることはない」

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3.今の自分が伝えたいこと。

こうして今日、3月11日、こうして記事にまとめているわけだが、僕から何点かもしかしたらこれを読んでくれている「誰か」のために伝えたい事がある。

まず、決して自然を「みくびらない」ことだ。何を当たり前のことを言っているんだと思うかもしれないが、3.11の津波なんて予測不可能な高さまで押し寄せてきたものであったし、「震度7」の恐ろしさというのも現代になってからは(阪神・淡路大震災は大前提として)初だっただろう。僕自身、西方沖地震(福岡県・2005年3月20日)は奇跡的に、両親の仕事の都合上、大分県に預けられていたため免れたのだが、熊本地震(九州全体・2016年4月14日、15日未明)は身をもって強い揺れを体感した。ここまでの経験を以て言えることは「自然災害はいつ何時やってくるか読めない。自分を守りたいなら、それなりにそれ(=災害)について知っておくこと」これに尽きる。

そして、「備え」も忘れてはならない。今は、あの震災の教訓を持って、自然災害時には無料で使えるようになる自販機やそれなりに備蓄されている食料、また、安心して睡眠が取れるように「段ボールベッド」等も開発されている。しかし、それが全て100%の供給量を持っているかというと、必ずそうとは言い切れないだろう。(昨年のゼミの資料を作成している際、そのような記事を何個も読んだ。)

そうした時に、少しでも家に何か「備え」ていれば、何か役立つかもしれない。例えば、パイプラインが止まった時のために、お風呂の水を溜めておく。ガスが止まった時のために、ガスコンロを持っておく。何でもいい。とにかく「備え」をしておくことが重要なことだ。

そして「ハザードマップ」を知っておくこと。これも有効だろう。街中ならまだいいかもしれないが、特に田舎の海沿いの方々にはこれを強く推奨しておきたい。これを知っておけば、先述した「閖上の悲劇」を繰り返してしまう可能性は限りなく低くなるはずだ。何かあった時に、どう行動すればいいか知っておく。非常に重要なことだろう。

もっともっとあるはずだが、この3つが自分にとって特に重要なことだと思った。


4.スポーツがもたらす「希望」

こうして色々と書いてきた訳だが、最後に、僕の趣味である「スポーツ」が持つものについて書かせて欲しい。

僕の父親がスポーツ関係者、祖父が大の野球好きの影響で、僕もスポーツを幼い頃から見ている。そういった中で、スポーツはいつも人々に「希望」を与えていると思う。常に。

例えば、2011年、4月23日のベガルタ仙台VS川崎フロンターレ。

2013年、東北楽天ゴールデンイーグルス、初のリーグ優勝、日本一。

この2ゲームは、震災で疲弊しきった心に、沢山の温もりや喜びを与えたはずだ。

そして、熊本地震で被災した九州でも、福岡ソフトバンクホークスの試合が次の日に行われた。そして、内川聖一選手が決勝打を放ち、お立ち台に。彼は目に涙を浮かべ、こう言っていた。

「僕と同じような年代の親が、不安そうな子供を連れて避難している。もう、こういうことはあって欲しくないっていうのが、本音ですけどね…」

僕はこの試合が忘れられない。今までのスポーツの試合に中で一番忘れられない試合である。



オールジャンル。何でもいい。スポーツは、人々に喜びを、幸せを、感動を、そして何よりも「希望」を与えてくれる。これからもずっと、ずっと、1スポーツファンである中の人はそう思い続けている。


スポーツは、揺るがない。今日も、明日も、明後日も。

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↑「プロ野球オールスターゲーム2021」の写真です。島内宏明選手がMVPでした。「ここで、島内!」


ここまで読んで下さった方、本当に感謝しています。これからも3.11を風化させないように、そして、いつ来るかわからない自然災害に向けて、少しでも準備をしましょう。




最後に、東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。


あなた方が残してくれたもの、今の僕たちの備えになっています。


3/11 2022

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