「やらない」勇気

いろんなところで
「やらない」ことを決めなさい、ということが言われる。

ずっと意味がわからなかったが、最近実感する。
これめっちゃ大事だ。

昔は「明日やろうは、ばかやろう」というように
やれることは今のうちに全部やっておけ、
ということで良かったんだと思う。

そう思って仕事をやってきたが

ムリになってきた。

時代が情報流通過多になったということもあると思う。
自分の容量(CPU)も小さいし、
物理的に人が足りない。

そういう中で「全部やろう」とすると
パンクするし
パニックになるし
トゲトゲするし
周囲に迷惑をかけるし
最終的に自分が「できなかった」と落ち込む。

何一ついいことはない。

そうなるくらいなら
ナマケモノとみられてもいいから
「やらない」勇気も必要だと思うに至った。

何をやらなくていいか。
やることを書きだした後、
「今はやらないこと」を決める。
それだけでずいぶん気が楽になる。

でも職場で
「やらない」という選択をすることは、
「嫌われてもいい」と同じくらい難しい。
怠けてる、容量の小さい劣ったやつという、他人(内在化された他者=自分の思い込み)の声がずっと聞こえる。
でもそれは、実際に言われてはいないのだから(大丈夫、やっておくよ!)、お言葉に甘え、耳は塞ぐ。


周囲の評価とか人事査定とかを諦める。

一番は、自分を諦める。思ってたより「できないやつ」なんだと認め、できないなりに何はできるのか考え、それをやる。


やらない

役に立たないと思われる

会社で存在意義がなくなる

という図式(偏見)が
私の中に確固としてある。

でも職務分掌ができてない事務
(マネジメントもほぼ機能していない)部署で、この「恐怖感」から仕事をやろうとすると
崩壊することがわかった。特に人間関係が。

そして、こっちのほうが重大なのだが
この偏見がある限り、
私は職場のあらゆる人を
「仕事ができる/できない」でジャッジし続ける。
ジャッジする側にいる限りけして信用はできない。

でも、信用(とか愛とか)って、
先に与えないともらえないんですよね。。。
もちろん何でも許すことがいいことだとは思わないが、
根底に「無償の信用(愛)」がないと
たぶんずーーーーーーーーーーっと人とうまくいかないなと思った。


「存在意義=承認」。
「この会社に必要とされている」を超えて
「私がいないとダメなはず」というやつ。
これは病だ。
自分に自信がない不安を
職場に押し付けてはいけない。
職場の人は家族ではない。
無償の愛はくれない。
欲しかったら、私が無償の愛を職場に注がないといけない。

私は「誰かのため」に働くことができない。
私はそういうモチベーションでは仕事はできないタイプなのだと思う。
仕事のために。自分のために。
このビジネスがめざす理念のために働こう。
その理念が自分に合わないものなら、
私にとってそれはもう頑張る意味のないことだ。

私は今、会社に
労働力と時間と知能と
私の持っているほとんどのものを売って、
その対価を「給料」としてもらっている。

売りたくなくなったら、売らなきゃいいのだ。
自分が売りたいものを売りたい先に売る。
日本はそれが選べる国だ。

そういうわけで
上司からの業務命令をこえて
「私がやらねばならない」「私がやるべき」
と思っていたことを、一度全部やめてみよう。

やれと言われたことと、やると決まっていること以外はやらない。
一度これを試してみる。

日本は解雇権が厳しく制限されている。
出退勤をしっかりして
周囲とそれほど軋轢を起こさず
最低限の仕事をしていれば
クビにはできない(はずだ)…。
(まあクビになったら、またそれネタにします。。。)


首尾は、また報告します!

これからも書き(描き)続けます。見守ってくださいm(__)m