自分の「過去」は選んでよし!(2020.4.13)

▼このnoteは、3月末頃に書いたものですが、普遍的で出す価値があると思って、出してみます。在宅勤務の人、出勤しないといけない人、仕事がなくなった人、みんなおつかれさま。(だいたい3900文字くらい。)

自分がこのパンデミック以前に書いたものが色褪せて見える。また、パンデミック以前に収録された時事ネタを、見たり聞いたりする気にあまりなれない。それらは無意識に「今と同じように世の中が続くなら」を前提としているからだ。我々は無邪気であったな。。。

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「昔は良かった」という論調、いつでもどこにでもありますが、私は「昔の世界にも良かったところ・悪かったところがあり、今の世界にも良いところ・悪いところがあり、それらの中身が変化しているので、そのままは比べられませぬ」と思っている。

たとえば、「江戸時代、人々は助け合ってくらしていて人情があり~」という論調。

江戸時代について私はこう思っている。

自然のものを食べてリサイクルもできてエコで、鎖国してたから外交・防衛のことを過度に考える必要もなく(幕末以外)、日本独自の文化と美意識がさらに発展し、今の暮らしからすると、確かに良い面もあっただろう!

しかし、私は江戸時代にはあんまり暮らしたくない。

・人権という概念がなく、民を守ってくれる法律がほぼ整備されていない
 民の生活は今以上に藩主の能力に依存する。
労働が苛烈(都市は丁稚奉公、郊外は一次産業など、ありとあらゆる仕事が今よりきつかったと思う。あと洗濯機とかないから家事が重労働)
・女性や子どもの権利という概念がない
・医療体制が貧弱(抗生物質などもない)
・衣料品は(ヒートテックも当然なく)綿製品なので寒い
・家は木造で、暖房もないし冬めっちゃ寒い。とにかく冬が寒い!!!

昭和は良かった、という人たちにも同じ趣旨のことを言いたい。昭和もヒートテックなかったから寒かったと思う。結論、ヒートテックがない時代に私は生きたくない(そこかい)。

つまり、「良くなったこと」は「当然の前提」として考えられている。

それに対して「以前と違ってきていること」=「自分の都合が悪くなったこと」を「今は昔に比べて”悪く”なった」と言っているだけなんじゃないかと思うんです。

これは、歴史は意味ないとか、そういうことではない。歴史から学べることはおおいにあるので記録されるべきです(今回のパンデミックについても、おそらくヨーロッパ大陸の人たちは、すぐ、ペストやスペイン風邪(インフルエンザ)のことを思い出したと思う)。ただ、当時の実情・要素・条件を都合よく忘れて、懐古にひたるのは違うのでは?ということです。

例えば、「最近、新聞等にカタカナ言葉が氾濫していてケシカラン!」と投書する人は30年前からいると思う。でも、カタカナ言葉をそのまま使うことについての世間の抵抗感は薄れてきている。30年前からそういう人がいるのに、カタカナ流入はむしろ加速しているから。むしろ、変な和製英語にするよりそのまま使った方が、外国語話す時に便利

(蛇足)投稿者にとって「カタカナ語=ワシは知らん=ググるとかできない=都合悪い」となってて怒ってるだけだと思う。そもそも「カタカナ」という時点で日本語だし。あとこれも余談だけど、近い将来、中国人と韓国人と香港人の名前の表記も「漢字の音読み」じゃなくなると思う。その方が世界で通じる。香港の行政長官は「りんていげつが」じゃなくて「キャリー・ラム」だよ。少なくとも併記してほしい。。。
(蛇足2)ただ「ロックアウト(都市封鎖)」とか「オーバーシュート(爆発的感染)」は確かにちょっと困りました。オーバーシュートって、サッカー用語かと思った。

こんな考え方をするようになってから、自分についても、昔の自分がどうだったとか、あんまり興味がなくなってきたように思う。

過去の、とくに「いやな」記憶をずっと持ってる意味あるのかなあ。
あるとすれば「すごく叱られてその時はイヤだったけど、自分にとって意味があると思えたからそれをバネに頑張ろう」とかそういう類のもので。

だれかにいやなことされた、なんていう記憶は、もし本人が望むなら、人にメイワクにならない範囲で、都合よく書き換えちゃっても、消してもいいとすら、私は思っている。

もちろん、自分が忘れたくないものは(日記とかポエムとかに)記録して大事にとっておけばいい。

自分の過去は、選べる。


私も自分の人生がうまくいかないことをすべて過去のせいにしていた時があった。
親の能力や価値観。生育環境。生まれもった容姿や能力。

でもある日突然気づいた。
何かきっかけがあったというよりは、コップに水が少しずつ溜まっていって、ある時突然あふれ出すように。(私はこういう気づき方をすることが非常に多い)


あ、もう過去のせいじゃないんだ。
いつまでも親のせいにしていても意味ないわ。
親のせいにしている限り、親の呪縛から自由になれない。
その代わり、自分が「呪いはない」と思えば、呪縛なんかないんだ。


それはたぶん「私は本来的に自由なんだ」「私は変われるんだ」という初めての認識だったと思う。


それから、私は変わるようになった。
どんどん、どんどん、変わるスピードが速くなったと思う。


1年前と今の私では、あることについて正反対のオピニオンを持っていることもたくさんあると思う。
でも変わった後は、変わる前のことを忘れているので、なかなか自分では気づけない(笑)
「変わったね」そう言われて、「あ、そうだっけ?」と思うくらいだ。

でも、それでも私はバンバン脱ぎ捨てていきたい。
要らないものを。興味がないものを。私を不自由にするものを。

「合わないな」と思ったら、どんどん人づきあいも「フェードアウト」させていくようにしてます。また仲良くなれる時が来たら、戻ってこればいい。そういう苦労は無駄な苦労だと思ってるので。

もちろん人と人との「約束」とか「相手がいることで大事なこと」をバンバン自分の都合だけで捨ててはいけません。もしそれやっていたら、謝るので言ってください。。。

脱いで走って、それでも脱げないベースみたいなものがあって、それが私の個性なんだと思う。
それ以外は、借り物だなあ。
今乗ってるだけのビークルというか。別に粗末に扱ってるわけじゃない。


手に入れたものを最初から「ずっと持っていよう」ってあんまり思ってないの。思想も、モノも、人間関係も。
「残るなら残るでしょ」って思ってるし、残したいものは残すよう努力するけど、それで残らなくても「そーなんだ」で終わり。

神経質でやや強迫観念的な親に育てられた私は「捨てる」「できるだけ執着しない」を手に入れて、本当に楽になれた。
だから、私は「飽きっぽい」し、あまり「悔しがらない」。

理不尽なことについては、怒ることもあるけど、最終的には「ま、いいか。仕方ないや」で済ますことも多い。
そうしないと自分の心の中の黒い炎が強すぎて、自分と周りの人が火傷する。

※なお、本当に「こいつは私と私の大切な人に仇をなしたな」と思ったら、心の中のデスノートにしっかり書き込みます


・・・これらは全部、個人的な考えなので、(というか、当たり前ですけど、すべて私の意見は「個人的な意見」)「人づきあい=自己修養」という人がいてもいいと思う。それで自分が成長実感を得られて幸せで、周りにもストレスを与えていなければ。

あと、この「バンバン脱ぎ捨て」ていいのは、パーソナルな過去だけです。契約とか組織とか地域とか国の政治とか、そういうものについては、過去の記録をバンバン改ざんされたり消されたりしたら困りますのでナシです。

私の過去なんて、他の人には「意味ない」んだよなー。本質的には。
私にとっては、過去は自分の軌跡なのでとても意味はあるが、他の人は「今の私」と付き合っている。私の過去は、私を理解する手助けにはなるかもしれないけど、本質的には関係ないと思うのだ。

そこに私はいない。
過去は私が脱ぎ捨てた殻(ぬけがら)だから。
その殻をどれだけ調べても、今の私のことはわからない。

さいあく、変わるために不要な過去は封印してもいいと思う。
一回向き合おうとした上で、向き合いきれなかったら捨てていいと思う。
過去と向き合って、納得することもあるが、何度向き合っても「理不尽」としか思えないこともある。そういうことに、今の自分のエネルギーを費やすべきじゃない。

私は10~20代、過去と向き合うことにかなりのエネルギーを割いてしまい、後悔はしていないが、もっと早く意識を転換出来たらよかったなあとも思っている。

過去は過去。そこは昔の私がいた場所。

「そこ」があったから今がある。
でも今の私は「ここ」にいるから、そこには何もない。

これが、ほんとの本音!!!!

でもこの本音も半年後には変わってるかも(笑) 1年後、どこでどんな考えをもって何してるかわからない。そんな自分でありたい。今は。
良く言えば、たくさん可能性があるってことだもんね(笑)
誰も私の人生に責任なんかとれない。とってくれない。

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・・・マジで1年後といわず、1ヶ月後何してるのかわからない状態にはなってしまったが。

・・・なんとか「生きていきましょうね」。ワーニャ伯父さん!(©チェーホフ)

これからも書き(描き)続けます。見守ってくださいm(__)m