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風土記の地名物語 常陸国・番外編

 ようやく常陸国風土記の舞台、茨城に行くことができました。ただし、一泊二日。11月5日午前9時半、神奈川県の自宅を出発。首都高が大渋滞で、最初の目的地、美浦みほ村の楯縫たてぬい神社に着いたのは午前11時半頃でした。

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 普都大神ふつのおおかみが地上の荒ぶる神々を平らげた後、天に戻る際にかぶとや盾などの武具を脱ぎ捨てた場所なのだそうです(常陸国3)。樹木が鬱蒼として、やや寂れたところも含めて、いい雰囲気でした。

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 次も常陸国3で紹介した、霞ヶ浦で製塩を生業としていた浮嶋。稲敷市の浮島公園は地元でも知られていないようで、迷った後に発見。これが公園? 堤防の向こうの小さな砂州です。島だった痕跡はありません。でも、砂利ではなく砂浜なのは、さすが「流れ海」(霞ヶ浦の古名)。

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 堤防の上から、霞ヶ浦の向こうに、二つの峰が特徴的な筑波山が見えたのに歓喜しました。

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 その後、近々紹介する童子女おとめの悲恋の舞台を求めて、神栖かみす市へ。鹿島灘沿いに巨大風車が並び、壮観。かつては白砂青松の美しい海岸だったらしいのですが、今はそんな雰囲気はありません。

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 銚子市との境、利根川に近い海岸に童子女の松原公園が整備され、カップルがつくための鐘もあります。が、人の気配なし。ここでも背後に風車。

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 公園からほど近い場所に、童子女にゆかりがあると言う手子后てこさき神社。なかなかいい神社ですが、コロナ対策の看板が残念なので遠景の写真にします。

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 4日の内に鹿島神宮に行く予定だったけれど、日暮れが近づいて写真が撮れそうにないので断念。昼食抜きだったのに……。鹿島市内のホテルに着いたのは、もう暗い午後5時過ぎ。翌朝、目覚めてカーテンを開けたら窓の向こうに筑波山が見えたので、ビックリ。

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 午前9時過ぎ、鹿島神宮に到着。

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 常陸国8の拝殿の写真を自製に取り替えようと、無人になる機会を待ちました。が、次々に人が来て……やっと撮れたものは逆光がひどい。取り替えは諦めました。

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 前日は鹿島神宮以外計画通りだったのですが、6日は、行方なめがた市の国神神社常陸国7で紹介した海鯨くじらがはらばって来た場所?)、夜刀やと神社常陸国6)を連続で発見できずロスト。カーナビはこういう「小さな目標」が苦手だと初めて知りました。失意の内に(?)、山側から霞ヶ浦に降りると、やはり筑波山が見えます。

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 下の写真は、どこなのか不明。コンビニの駐車場なのは確か。ここからも筑波山がしっかり見えます。カーナビの誘導で道に迷うと、コンビニの駐車場で仕切り直し。食事やトイレでも、助けられました。

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 霞ヶ浦の周辺では、実に多くの場所から筑波山が見えます。快晴を待った甲斐がありました。

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 実は、空の澄み切った日には、霞ヶ浦から富士山が見えるとか。当然、筑波山からも。富士山が見えるなんて、茨城県民には常識かもしれませんが、私は知りませんでした。他県の多くの人がそうだろうと思います。

 筑波山と富士山のライバル関係の話(常陸国2参照)は、冬に富士山がよく見えることと関係があると思えます。そのことに触れた風土記の注釈があったかどうか……。下の写真は、御殿場から見た雪の富士山。

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 次は、常陸国4で紹介した石岡市の高浜。春、秋の美しい景色と浜辺で遊ぶ様子が楽しそうな風土記のイメージで撮りました(つもり)。この周辺、現状はいたって散文的です。

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 下は高浜神社(斜め後方から)。建物はだいぶ後のもののようですが、茅葺きの屋根が立派。高浜が霞ヶ浦の大事な港だった証しでしょうか。

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 最後はつくば市の平沢官衙かんが遺跡筑波郡つくばのこおり郡役所(官衙)の遺跡が発見され、そこにあった高床式倉庫を再現したもの。広々とした歴史公園として整備されています。家族連れやカップルが楽しそうでした。

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 筑波山の二つの頂上が見えます。筑波山は、遠くからは二つのとんがり帽子みたいでかわいいのですが、ここまで近づくと険しく、黒々として、不気味にすら感じられました。二つの山頂、いつか行けるでしょうか。

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 この後、またもカーナビに振り回され、どことも知れない道を走る内に日が暮れて、ようやく常磐道に乗ると東京方面は25キロの渋滞。パーキングエリアで一人焼き肉の夕食。午後9時前に帰着しました。

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