風土記の地名物語――常陸国2
筑波郡(現在のつくば市)について。古老の語る地名起源。昔は「紀の国」(「木の多い国」から?)と称されたが、崇神天皇の時代、采女の臣の同族の筑簟命が「私の名をつけて後の世に広く伝えたい」として「筑波」と改められた、と。続いて、筑波山にまつわる伝承。
富士山と筑波山
古老が語るのに、昔、神祖の尊が神々の所を巡りました折、駿河の国の富士山に至って、とうとう日が暮れました。一夜の宿をお願いしたところ、富士の神は次のように答えて言いました。
「新穀の収穫祭のために、家内の者は物忌をしています。今日のところは、恐縮なのですが、お泊めすることはできません」
すると神祖の尊は恨み、泣いて、ののしる言葉を投げかけました。
「他でもない、私はお前の親なのだぞ。なぜ、泊めようと思わないのだ。お前の住む山は、お前が生きている間、冬も夏も雪が降り、霜をおいて、冷たく寒い空気が何度でも襲い、民は登らず、飲食物が供えられることもないであろう」
次に、神祖の尊は筑波山に登って、ここでも宿泊をお願いしました。この時、筑波の神は答えました。
「今晩は新嘗のお祭りをしていますが、あえて仰ることに従わないわけにはいきません」
そうして飲食物を用意し、神祖の尊をうやうやしく拝み、謹んでお仕えしました。すると、神祖の尊は喜びを隠しきれず、歌を歌いました。
「愛しいわが子よ、高々とそびえる神の社(筑波山)よ、天地、日月と永遠に共にあり、民は集って賞めたたえ、飲食の供え物が豊かで、代々絶えることなく、日増しに栄えて、千年万年の後まで、遊びや楽しみは尽きないだろう」
これによって、富士山は常に雪が降って登ることができず、筑波山は人々が行き集って、歌い舞い、飲んだり食べたりすることが今に至るまで絶えないのです。
筑波山の男女の集い(歌垣)
筑波山は、雲より高く秀でて、頂の西の峰はけわしく高いので「雄の神」といって登ることが許されません。一方、東の峰は四方とも岩がちですが、登り下る人は大変に多いのです。そのかたわらの泉からの流れは、冬も夏も絶えることがありません。
足柄山から東の国々の男女は、春の花の咲く時、秋の葉が黄葉する折、互いに手を取り合って連れ添い、飲みものや食べ物を持ち寄って、馬や徒歩で登り、遊び楽しみ、憩います。
「筑波嶺の歌垣で会おうと言った子は、誰の言葉を受け入れたために、嶺で会うことができかったのだろうか」筑波嶺に 逢はむと 言ひし子は 誰か言聞けばか 嶺逢はずけむ
「筑波嶺に仮小屋をつくって、歌垣の夜だというのに、相手となる女性もおらず、一人寝をする夜は、早く明けてほしいものだなあ」筑波嶺に 廬りて 我が寝む夜ろは はやも明けぬかも
この折に歌われる歌はとても多いので、とても全部を載せることはできません。当地の言い習わしでは、筑波山の集いで求婚の贈り物をもらえなかった者は、一人前の男女とは言えないのだそうです。
常陸国2 解説
筑波山と富士山では、雪が降って冷たく人を寄せつけない富士山に対し、筑波山がなぜ人々に愛されるのか、その理由が語られます、新穀の祭りで、外来者を家に入れないという禁忌があったことが分かります。
次に有名な筑波山の歌垣(嬥歌)について語られます。歌垣の夜にもてないのは、ひどく面目ないことのようですが、なぜか持てない男の歌だけが収録されています。
万葉の伝説歌人として知られる高橋虫麻呂は、常陸国に役人として赴任した際、都から来た上司を筑波山にアテンドした歌を残しています。また、次の長歌も虫麻呂の作とされています(一部略)。強烈なインパクトがありますが、歌垣=乱交が事実だったのかは議論のあるところのようです。
「男女の集う歌垣で、人妻と私も交わろう。他の男も、私の妻を口説きなさい。この山を治める神も、昔から禁じていない行事なのだから、今日だけは見逃して、事を荒立てないで」
*見出し画像はWikipediaの筑波山の項目より(トリミングあり)。
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