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日々と写真,1998年(1)

1998年の1月、その日、首都圏に記録的な大雪が降った。

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10cmくらい積もったと思う。雪国から見たら微々たるものだが、首都圏は大混乱だった。しかもその日は、成人式だった。

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大雪が降ると、私には転機が訪れるというジンクスがある。1984年の大雪で持病が回復の兆しを見せたり、1990年の大雪で、3月21日になって突然神奈川県職員に採用されたり。

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うおー!この写真↑1000系じゃん!「東横線直通時代」で、元住吉は地平駅!とか、今、これを書いていて気がついたけれど、1998年のこの頃、東横線元住吉の高架複々線化など、どこか遠い世界の夢物語のようにさえ思えた。まあ、とにかく、雪だ。

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ううおー!東横線元住吉、現在の位置にホームも高架もない!、いや、このネタはもういいか、とにかく大雪で、東横線は着雪を防ぐため一晩中電車を走らせていたと聞いた。そのくらい大雪だった。

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画像6翌日は雪晴れ。

画像7同級生の小島さんが、蓼科に別荘があるとのことで、別荘に誘ってもらった。そこで生まれて初めてスキーというモノを体験してみて、転びまくって、何が何だか訳が分からなかった。私はふと、1996年に別れた彼女が「スキーくらいは出来るようになってね」と言っていたことを思い出した。彼女に酷い振り方をしてしまった罰を、今受けているのか、と。

画像8蓼科

画像9蓼科

画像10蓼科

画像11蓼科

そんで、大雪なもんで私に転機があったかというと、ないんですよ。何でも雪のせいにするなよって話はありますが、あと、今の奥さんと知り合ったのはこの冬だったから、そういう意味では大いに転機だったとも言えるのですが、そんなことはあとになってみないと分からない訳ですよ。

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ただ、この年、私は写真学校の同級生4人と一緒に、四谷三丁目(当時)のPlace Mで、グループ展を開催したりしました。上の写真はその時に出品した一枚。このグループ展は5人がそれぞれ得意な分野を発揮した一面があって、それは写真以外のことで、人間関係を築くのが得意や人は、浅草の屋台をやってる女の子に声を掛けて写真展に連れてきたり、普段演劇とか展覧会とか見てる(?だったと思う)人は、情報誌とかの連絡先を集めてきて企画書を書いて送ったり、私はというとPCでDMの原稿データを制作したり、そういう意味での分担が割とうまくいった写真展だったが、そういう側面で写真展が評価されることはあり得ない。

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写真展は1週間で200人の来場があって、そこは普通は100人くらいの来場なのだそうで、これは一つの事件だとか言っている人もいました。当時のPlace Mは現在と場所が違っていて、近くに銭湯があって、メンバーと一緒に入ったのだけれど、温度設定が45度で、江戸っ子の湯は熱かった。

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その時、どのカットを展示したのか私は、実は、最初の1点以外はよく覚えていない。ここに掲載しているカットは、多分、展示していたと思うけれど、記憶は曖昧。

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その写真展には、Place Mという写真界では有名なギャラリーだったこともあって、いわゆる「先生」と呼ばれる大御所も何人かいらしていただいたとのことだった。私がお会いしたのは、O先生くらいだった。学校もあるし、当番制にしていたんですね、会場管理。で、別の某先生とおっしゃる方が私の写真をぼろくそにけなしていたそうだが、その理由の一つが「マットに緑色の紙を使っている」ことだそうで、実際にはそれは淡いクリーム色だったのだが、なぜそれを「緑」と言ったのかというと、その先生なるお方が色の濃いサングラスを掛けていたからで、その話を聞いた私は(以下略)

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この頃あたりから、私は学校で「優秀であろうとすること」を辞めた。辞めたというより、とっくに出来なくなっていた、出来損ないになっていた訳ですが。しかし中退だけはすまいと思った。理由は簡単だ。履歴書に空白を作るべきでない、と。前職を辞して学校に行った、そこまでは繋げたが、履歴書に空白を作ると、30代での再就職は厳しいことが分かっていた。まあ何ですね、メイモクですよ、メイモク。結局のところ私にとっての写真学校って。空白期間を埋めるためのメイモク。

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何で国税庁なんて行ったんだろうな?私↓。

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ただ、メイモクが何であれ、作品を制作して卒業審査にパスしなくてはならないという現実はあって、じゃあ何を撮ればいいのかと、本当に困ってしまった。

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今思うと、モノクロなんか撮っていないで、カラーのリバーサルでバシバシ撮ってA3ノビのプリンターでどんどん出力して。そういう選択肢があったはずなのだが、私はそれをしなかった。今思うと、私って、ほんと、バカ。

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たいした用事もないのに東京に行くことは多かった。

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この頃、奥沢の喫茶店と懇意になって、月替わりで展示などもやらせてもらった。結局、それは2年くらいしか続かなかった。別の場所でも、やはり1年くらいで終えてしまった。ノーギャラでの展示というのが痛かった。銀塩写真は撮影から現像からプリントまで、とにかくお金がかかるのだ。

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若い学生なんだからノーギャラで当然だろうみたいな風潮にも腹が立った。今でも腹が立つ。

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お金には困っていなくても、ノーギャラというのはやっぱり認められないものなのだ。人をバカにしている。あるいは舐めている。

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そうはいっても、私に何の権力がある訳でもなく、なすすべもなかった。

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お金には困っていなくても、ノーギャラというのはやっぱり人をバカにしている。

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とにかくこの頃、訳もなくよく出かけていたと思う。

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これが何か分かる人は、相当な人かもしれない。正解は「ラックレール」。JR上越線敷島駅前で、側溝の蓋として活用されていた。おそらく碓氷峠から撤去して持ってきたのだろう。今でもあるかなあ?

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前橋。「町の写真を撮ろう」と思ったこともあったが、上手くはいかなかった。

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学校の「やり過ごし方」だけは、そこそこ覚えつつあった。

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私は孤独には弱かったし、今でも弱いが、この頃は孤独だった。それもかなり辛かった。

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これが未来の私かな、とかも思った。

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しかしこういう世界に戻りたくもないなとも思った。

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東急線ではありません。静岡鉄道です。静鉄は沿線を全部歩きました。ろくな写真が撮れずに帰ってきました。

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草薙駅。

画像35JR静岡駅の喫茶店「エルナード」。喫茶店だけが、当時の私の心安まる場所だった。

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