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なぜ「就学活動」という言葉を使ったか?

障害のある子どもの親が、小学校入学に際して学校を「選ぶ」ことを余儀なくされる「就学活動」について取材した記事が5月15日、Yahoo!特集で公開されました。

「就学活動」という言葉は、インクルーシブ教育関連の取材をする過程である保護者の方から聞いたのですが、私がそうだったように、あまり聞き馴染みのない言葉だと思います。

編集サイドからは「これは就学相談の話ではないのか? 検索しても出てこない言葉だ」という意見がありました。しかし、私はどうしても、この言葉にこだわりたいと思いました。多くの人にとって、聞き馴染みのない言葉を敢えて使ったのは、わずか5歳や6歳といった年齢の段階で、高校生や大学生の「就職活動」と同じように「将来を左右するかもしれない」というプレッシャーにさらされているということを、よく表していると感じたからです。

記事にも書きましたが、「選べること」と「選ばされること」は全く意味合いが異なります。障害のある人とその家族に対する「差別」の一つだと、私は考えています。

そして、差別は必ずしも悪意から行われるわけではありません。私自身、障害のある子どもの親の一人ですが、「我が子のため」と思って、知らず知らず自分の子どもを「差別」していることに気づくことがあります。

社会学者の朴沙羅さんが『家(チベ)の歴史を書く』(https://www.chikumashobo.co.jp/special/chibenorekishi/

の文庫版あとがきで、自分がマイノリティである一方、マジョリティでもあるといったことを述べた上で、次のように書いています。「誰もこの不正義から逃れられません」「ここから解放されるために、みんなでちょっとでもできることを、死ぬまで毎日、やり続けなければいけない」

これを読んで、本当にその通りだと思いました。

おそらく、この記事にはアンチコメントがつくのだろうと思います(実際、ついています)。その中には、もしかしたら、障害のある人に対して差別的なものもあるかもしれません。しかし、社会にある差別の構造を維持しているのは、見るに堪えない差別的なコメントを書く人たちだけではありません。

むしろ、多くの普通の人々が、社会にある差別の構造を維持しているのだと思います。当然ながら、そこに私も含まれます。だからこそ、私たちはまず、そこに気づき、そこからスタートしないといけないのだと考えています。ちなみに、これまで多くの人が気づいていなかった「差別」の構造を伝えたかったというのも、聞き馴染みのない「就学活動」という言葉にこだわった理由の一つでした。

そんなことを頭の片隅に置きながら、記事を読んでいただけると幸いです。

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