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コロナ禍と自由

 今年も早年の瀬.コロナ禍でむかえる二度目の年末です.この1年半,感染拡大抑制のための方法論や経済対策など,さまざまなフィールドでそれぞれの分野の専門家による議論が行われてきました.一方で,コロナ禍が私たちに突きつけたもうひとつの,そしてより基礎的な,課題がある.それが…………

「自由」とは何か

という論点ではないでしょうか.私たちの社会における自由のもろさについては『中央公論』の連載でも指摘してきました.

 自由についてのアカデミックな意味での専門家は(哲学以外では)憲法学・法哲学のフィールドだと思うのですが,当該分野からの「コロナと自由」についての解題は余り多くないように感じます.真っ向からこの問題点を指摘するものは法哲学者の谷口功一さんによる,

くらいしか思い浮かばない.法的根拠が希薄なまま飲食店の営業の自由を規制することへの反論(または規制を擁護する論理)について論争がおきないのは残念……というより意外です.なかでも立憲主義の重要性を日々主張してきた人々からのリアクションの薄さはむしろ驚きといってよい.

(もっともこの意外さは私がこれらの分野に不案内なだけかもしれません.なにか規制批判や規制正当化を巡る論争あればご案内ください)

 また,行動規制と営業の自由を巡って論点となるのは「命」と「カネ」のトレードオフ問題でしょう.行動の制限は,そしてワクチンはどの程度の「命」を救い,どれだけの「経済的被害」をもたらすのでしょう.

天然痘・チフス・黄熱病

 12月10日に出版された『コロナ対策の費用対効果』(原田泰,ちくま新書)はこの課題にダイレクトに挑んだ著作です.まだまだ数量的なデータに乏しい中での限定的な分析ですが,同書では,ワクチンの費用対効果の高さと行動制限の費用対効果の低さなどが指摘されています.

 その一方で,もうひとつの……より中長期的な自由と感染症予防の関係にも注目する必要がある.「ワクチンを打たない自由」を含めた「自由」は感染症,経済成長等にどのように影響するのでしょう.

 ここで注目されるのが,奇しくも同日に日本語訳が出版された経済史家のトレスケンによる天然痘と黄熱病に関する研究です.原著の出版は2015年(著者の生前の最後の著作でもある).新型コロナウィルス感染症における各国の状況を予言していたかのような同書がこのタイミングで日本語訳されたことの意義は大きい.

 結論(の一部)は次の一節に要約されています.

アメリカがこれらの(天然痘の)撲滅に遅れをとったのは.豊かで自由であるにもかかわらず,ではない.自由で豊かだったからなのだ.

『自由の国の感染症』p23

 これは私も同書で知ったのですが,天然痘の感染者数の減少,その撲滅ともにアメリカは西欧諸国の中で際立って遅い.その理由として,トレスケンは米国における「自由の尊重」にその原因を求めています.
 一方で,同書ではこの自由の尊重が水道の普及等を通じて腸チフスの撲滅に大きく寄与したことを指摘しています.また,貿易港を通じて流入する(=流入ポイントが限定される)黄熱病についての自由の影響――黄熱病の撲滅には効果はないが別の理由で全死亡率を劇的に低下させた等の指摘も興味深いところ.大著ではありますが,「コロナと自由」を考える上での必読書であることは間違いありません.

貧困病と商業病

 なお,この自由と感染防止のトレードオフを理解する際には,「貧困病」と「商業病」という補助線が有用です.
 同じ感染症でも,十分な栄養や清潔な環境にある人……つまりは富裕層にとっては致命的なものになりにくい感染症が貧困病です.腸チフスはその好例.こちらについては自由な経済環境が中長期的な感染者,死亡者を抑制する傾向がある.
 一方で,富者にも貧者にも等しく襲いかかるものを商業病と呼びます.典型的には天然痘.日本においても歴代多くの天皇・将軍・大名が疱瘡に罹患しています(孝明天皇の死や伊達政宗の片目の失明などでご存じかと思います).こちらは自由の尊重が状況を悪化させる可能性があるでしょう.

 トレスケンの研究は質的研究(歴史研究)が中心であるため,このいずれが重要化については十分な議論が進められていません.商業病と貧困病について統合的な量的アプローチを試み似ているのが下記の論文です.

 量的な結論を要約すると,経済的自由度は貧困病(腸チフス)による死亡を有意に減少させる一方で,商業病(天然痘)を有意に増加させるとは言えない――となります.経済的自由の尊重が経済成長を通じて感染症に限られない疾病と戦う力を向上させる点はもっと注目されても良いでしょう.
 また,今次のCovid-19についても経済的自由を失うことでその感染・死亡を抑制することが中長期的に莫大なコストとなる可能性を指摘している点も特徴的です.

財産権・個人の自由・連邦制

 話をトレスケンの『自由の国の感染症』に戻しましょう.トレスケンは部米国における自由の尊重を,財産権・個人の自由・連邦制のパッケージとして捉えています.

 財産権の保護は,私企業の水道への投資やそのための金融アクセスを容易にすることを通じて,公衆衛生の環境を促進します.また,個人の自由はワクチン接種の義務化を困難にすることがある.
 そして,連邦制(自治の強さ)は2つの影響を持ち得ます.州同志が公衆衛生環境の向上について競争することで感染症(なかでも貧困病)の状況を改善することでしょう.一方で,ワクチン接種推奨について州ごとの姿勢が異なることは感染症(なかでも商業病)の抑制にとってはハンデとなるというわけです.

 この3点について,コロナ禍を巡る日本の状況を考えてみましょう(論旨の都合で逆順で整理します).

 まずは「連邦制(自治の強さ)」について.日本は基本的には中央政府による集権的な統治傾向の強い国です.そして,米国のように自治そのものにアイデンティティをもつということは少ない.にもかかわらず……なぜか感染症対策については都道府県(+政令市)の個別裁量が非常に強い.Covid-19感染拡大に伴い,知事の顔をニュースで見る機会が非常に多いことは偶然ではありません.
 全国的な(実際には全世界的な)感染症であるCovid-19への対応を都道府県という小さな規模の自治に委ねたことは,日本のコロナ対策を大いに停滞させた可能性があります.都道府県毎に飲食店への営業制限や休業補償のあり方,移動制限などに大きな差が出たことは今後の地域経済にとって大きな影を落とすことになるでしょう.
 一方で,原田(前掲書)でもっとも高い費用対効果があったとされるワクチン接種について,国主導での接種促進が強化されたことで普及の速度が上がったことを考えると,トレスケンの指摘は日本についても成り立っているように感じます.

 つづいて個人の自由.Covid-19を巡る日本の対応は時に「日本モデル」と呼ばれる個人の自主的な行動変容に依存したものでした.法や制度にもどづく個人行動への制約はほとんどないといってよい.ある程度の制度的な制約を課した入国・帰国者の経過観察や隔離についてもそのゆるさが指摘されることは少なくありません.
 その一方で,実際の日本人の行動変容(人流の増減など)を見ていると,「個人の自由を制約したとしか思えない」変化がありました.日本において個人の自由を制約するのは政府ではない.世間の目であり,世の中の空気なのだというのが可視化された状況です.政府による自由の制限と世間による自由の抑圧のどちらが中長期的な経済活動の停滞を引き起こすのかについては日本経済論……というより日本社会論の重要な論点になっていく者とも割れます.

 そして財産権.または営業権.この問題を考えるにあたっては,医療機関と飲食店への対応でくっきりと明暗がわかれたところが印象的です.
 コロナ対応の病床確保において,政府は医療機関の病床をなんらかの強制的手段で接収するという手法をとることはありませんでした.病床の確保は金銭的なインセンティブの付与によって進められた.医療機関の財産権・営業権は強く保護されたわけです.
 一方の飲食店についてはどうでしょう.ここも自治体により対応が分かれるところですが,営業時間の「自主的な」短縮や営業「自粛」が制度的に推し進められました.また,「世間の目」が時短や営業自粛をせざるを得ない状況をもたらす形で自由が制限されたわけです.その善し悪しはともかくとして,飲食店の財産権・営業権は医療機関のそれに劣後すると言うことが明確に示されたわけです.
 ゲローソ(前掲論文)が指摘するように,このような権利の差は中長期的な産業の消長に大きな影響を与えます.端的に言えば,飲食サービス業は感染症拡大期にはその営業の自由を制約されるのだ……ということがわかった以上,同産業での起業・開業を抑制する効果があるでしょう.

 Covid-19は商業病としての特徴を持っています.そして商業病は貧富の差なく襲いかかる病です.そして商業病の抑制のための措置は貧困病やその他の理由での死を増大させる可能性がある.財産権・営業権に優劣があることを明確にしたこと,日本における政府の,メディアの,各種専門家の議論がCovid-19抑制に大きく傾斜していた事実……ここから導かれる含意について今こそ十分な論争が求められているような気がしてなりません.

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