「井伊家三代」 "厭離穢土欣求浄土"の旗の下
乱世創業 井伊家の三代 ー直政・直継・直孝ー
一、はじめに
井伊家中興初代の直政が徳川家康四天王の一人であり、幕府の元勲であったことは多少歴史に明るい人なら皆知っている。ところが三代直孝は父直政に勝るとも劣らぬ人傑であって、これまた幕府の大立物であったにかかわらず余り世人に識られていない。二代の直継に至ってはまだ誰も取り上げた人はいない。「井伊」といえば「直弼」そして「大老」と、この三つ組の名ばかりが口端にのぼるばかりで、肝腎の家の創業に与った直政、直継、直孝は亡却の彼方に没しているといっても言いすぎではない。筆者は以前からこのことをすこぶる遺憾に思ってきた。井伊直政のような豪傑(このコトバが現代簡単につかわれるようになったが、一般のごとき軽い意味ではない)の本格的な伝記がはばかりながら井伊のものしか存しないというのもあく迄―本格的な―という意味で(『井伊軍志―井伊直政と赤甲軍団』)淋しい限りである。今回この三代をとりあげたのはその思いのいくらかをはらし、世の歴史や武具愛好家にかれらのことを聊かでも知ってもらいたいがためである。見者よろしくこの微衷を汲み取っていただければ有難い。
二、井伊直政
井伊直政は天正三年のはじめ十五才で家康に見出された。恰も長篠合戦直前の時期である。のちに徳川四天王と称される他の三人(本多・酒井・榊原)は既に戦時の履歴堂々とした大先輩。直政は奉公の当初からかれら三人の衆をライバルとみなし、かれらに勝ち抜くことを目指した。直政は家康側近の将としてはむろん、主だった将士中においても新参者であった。それがわずかの間に先輩諸士を抜き、ついには徳川四天王の筆頭、禄高も家臣中第一となったのはなぜだろうか。
余りに出世のスピードが早いので、後世主君家康の寵男説まで裏面では根強くささやかれることになるが、奉公の始終を考えると事実とは考えにくい。
むろん、堂々たる体躯の極めて爽やかな武辺者であったから、そのような風評が生まれたのも不思議はない。直政が家康臣僚中、抜群の地位に昇り得た理由は、むろん戦場での剽悍無比な自身働きによる功名や忠実性にもあったが、その第一の理由は卓越した政治力にあった。
ゆらい家康の幕下には、犬馬の労を惜しまず刀槍の働きに忠勤をつくす者には事欠かなかったが、広い視野をもつ政治性に富んだ武将には恵まれていなかった。直政自身そのことは秘かに気付いていたにちがいない。
家康が東海の一大名から関東大名、更に天下をのぞむにいたる権力膨張の過程において最も必要としたのは政治というものがわかる優れた家臣であった。家康が三河を統一し、更に大きく飛躍しようとしたまさにその時、直政は出現した。主従の出会いは運命の序列といってしまえばそれまでであるが、まるで出来のよい芝居をみるようで実にタイミングが良かった。
ここでその直政の卓越した政治性について例をあげて説明する余裕はないが、その能力を一言以て象徴した戦国有数の智将、小早川隆景の直政評をあげておこう。
小身ナレドモ天下ノ政道相成ルベキ器量アリ
おしいことにしかし、直政には一つの大きな欠点があった。身心共に健常かつ偉大な男であったが、根本に武家の名門としての貴種意識が強かったから、下々への配慮、家来に対する情愛に欠けていたことである。
これで多くの家来を失った。無用の殺生にちかい殺戮もおそらく数えればきりがないだろう。上州の箕輪や高崎城主の時代、家来たちは毎朝出仕のとき、家族と水盃を交して登城したという。
直政の生涯は公私とも血にまみれていた。戦場でも、平時でも「人斬り」「赤鬼」という異称は掛値のないところで、他からみればまことに鬼の申し子、恐怖の典型のような武将であった。しかし徳川の覇権を決定化する上には直政のこの公私にわたる性格上の長所短所が適所にうまく配合され有効に働いたといえる。直政にとって最後の戦場となった関ヶ原では軍政共に天下分け目の主役にふさわしい指導的役割を果した。関ヶ原での名誉の傷が再発し四十二才の生涯を終ったことはまことに惜しまれるが、実のところ余り合性ではなかった秀忠の実権政治の頃まで生きず、家康の存命の間に、世を去ったのは、やや早すぎるとはいうもののその死は、直政にとってある意味幸せであったかも知れない。
続きます。
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