コミュニケーション|小澤南穂子【ヒコウキグモ】

コミュニケーションが楽しいと不安になる。
自分が楽しんでいる時は、自分が喋りすぎて相手の言葉を封じてないか不安になる。

というのも、私が、コミュニケーションが、楽しいと思う時と、疲れると思う時があるから。

稽古帰りの電車の中で、饒舌に喋るまだ喋り足りない人を置いて、サラッと、礼儀正しい別れの挨拶もなしに、雑に帰っていく人を見かけた。

わたしが、コミュニケーションが楽しいと思っている時、私は前者の人で、コミュニケーションを疲れると思っている時、私は後者の人なのかもしれない。

特に、雑談をする時の方が疲れてしまうことがある。一個別の思考回路を増やして使うからだろうか。

聞いているだけでは済まない。

私の何かしらの答えを期待する相手に、何か言わないといけない。
そのときは相手の期待する言葉や反応を意識してしまう。

同時に、その期待に反したことも、色々思っちゃって、それを言わないと後でもやもやしちゃって、言ったところでもやもやする場合もあって、言う言わないという選択肢の前に、言えないこともあって、結局やり過ごせない。

相手のものも自分のものも、あの発言や態度は、「正し」かったのか。

ということを、ぐるぐる考えることになる。

めんどくさい。

誰にとっても正しいことなどないのかもしれない、誰かにとっての正しさが誰かにとっての正しさを上回って、その場にとってはそれが正しいことになり、見えないぐるぐるはもっと見えなくなる。

では、人が、それでもコミュニケーションを取ることに対して能動的であることをやめなさそうなのはなんでなんだろう。対話とかそういうことではなく、もう、挨拶とかそういう文化が無くならないことについて。

進行中はわからないんだよなあ、自分が楽しんでいると尚更、相手が楽しんでるかどうかというのは。自分にとって正しいから、相手にとって正しくなくても気づけない。

一方通行的で、相手の状況や状態に鈍感で、間違った方向にグイグイと進みながら何故か手応えを感じてしまっていることの恐ろしさは、その時の気持ちよさは相手に疲労感を与えているかもしれないことの恐ろしさは、
そういうのは結局、やっぱり、後になって自覚して初めて気づくことになるのか?

その繰り返し、かよ、、、

「後になってからわかること」なんてクソ喰らえだ。全部わかってたい。
死ぬまでの自分の人生を全部予習して、全ての問いに大正解したい。

偶然?ご縁?そんなの数学と占いで何とかしてくれ。

言いたいことを言いたいように言っても、相手が疲れずにへこたれずに飽きずに諦めずに、もやもやぐるぐるもせずに、言いたいことを言いたいように言える、みたいな、両者にとって、誰にとっても、「正しい」状況って、もはやあるのだろうかという疑い。

コミュニケーションをとるときの不安を拭い去れない。

でも生まれてきちゃうから、生きるしかない。
挨拶すると、そのあと何か会話しないと気まずい。

でもそれだってタイミングとバランスとが重なり合った偶然の産物なわけで。

いいへんじ 二本立て公演
『器』/『薬をもらいにいく薬』

日程
2022年6月8日(水)~6月19日(日)
会場
こまばアゴラ劇場

予約開始
2022年4月22日(金)10:00~

公演詳細
https://ii-hen-ji.amebaownd.com/posts/33413098


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