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「小学生からプログラミングしてるのは、すごいのか?」という疑問に対して、当事者が答えてみる。

結論

すごくない

理由

これだけでは記事が終わってしまうので、もう少し理由を述べる。

やれイーロン・マスクは小学生からプログラミングをしていただの、やれ日本を代表するプログラマーである登大遊さんは小学2年生からプログラミングをしていただの、「幼少期からプログラミングをしていた」という事実は、天才神話の一部としてエピソードに使われることが多い。

だが、それはすごい人がやったことだから、すごいと言われているだけであって因果関係が逆である。

これが例えば語学力などの特殊な能力だったら、ネイティブやバイリンガルという形で明確に有利に働くだろうが、こと技術力においては「幼少期から技術を学んでいた」という事実は、未来の技術的優位性を保証しない。

私なんて、小学生からプログラミングをやっているが、水戸黄門のOPである「後から来たのに追い越され♪」という歌詞に共感のあまり、涙を流す毎日である。

あえて言うなら、幼少期からプログラミングにハマったということは「プログラミングが好き」という少なくとも最低限の技術的素養は確保されているという点で、特筆にあたるのではないか。でも、それくらいだ。

ただ、若いうちは知識が定着しやすいのは当たり前であって、年長者でプログラミングを学んだ人のほうが、よほどすごいのではないかというのが私の持論だ。


私の尊敬するプログラマーの一人であるMicrosoft社でWindows NTの開発を指揮したデヴィッド・カトラーなんて、デュポン社に勤めて順調にキャリアを歩んでいたのにIBMの学校に通い、プログラミングを学んだという。(※)

余談だが、以上のエピソードからプログラミングスクールに通ってプログラミングを学ぶというのが馬鹿にされている風潮はクソだと思う。成人になって自分の向いている分野が違うとわかる大人なんてデヴィッド・カトラーに限らずたくさんいる。キャリア転向が白い目で見られる社会なんて、時代の産業構造の変化に追いつけず凋落していくだけだ。

※  詳細のエピソードは絶対的名著である『闘うプログラマー』に載っている


つまり、デヴィッド・カトラーが卓越したプログラマーであることを鑑みると、物事を始めるのに年齢を言い訳にしてはいけないのだ。
逆に、幼少期からプログラミングができない環境だったから、自分のプログラミングスキルには限界があると感じている人は、非常に勿体ないと思う。


最後に、私が大好きなカトラーの言葉を引用して、記事を締めたいと思う。

普通の人たちに偉大な仕事ができないのは、めったにない仕事にとりくんでいるときですら、日常の習慣にとらわれているからである。月並みな仕事しかできないのは、才能がないからではない。意思に問題があるからだ。カトラーはそう考えている。

G パスカル ザカリー『闘うプログラマー[新装版] ビル・ゲイツの野望を担った男達』


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