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アクシデント

2022年11月15日(火) くもり 寒い
カウンセリング。前回からちょうど1ヶ月だ。10月は鬱っぽくて気分が沈んでいることが多かった。それが11月に入って回復し始めて、最近は穏やかに過ごせている。だからカウンセリングで話すこともあまりないなぁと思っていたのだけど、いざ話し始めて気がつくと、最後の方はずっと泣いていた。

「接待が入る」と俺は言うのだけど、他人と一緒に過ごしている時間を自分の時間として生き抜くことが俺にはものすごく難しい。楽しんでほしいという気持ちならまだ健やかかもしれないが、俺の感覚を言葉にすると、「俺と一緒にいることで損してほしくない」となる。それを”自己肯定感の低さ”なんていうくだらないキャッチコピーで片付けられることにもうんざりしていて、それでもそれで片付けようとする人間が多いはずだから余計に俺は話せなくなる。「言ってくれなきゃわからないよ」って言われることもたまにあるけれど、それはほとんど暴力だろうと思う。伝わると思ったらとっくに話しているし、言葉にできるところまでは話しているつもりだ。もうこれ以上は伝わらないとわかっていても、まだ俺が説明しなきゃいけないのか?いいじゃないか、わからないならわからないままで。わからないってことだけわかってもらうわけにはいかないのか。
会いたいと思っている。話したいと思っている。そこに何かがあると信じている。ただ、俺の感覚はいつのまにかスライドして、誰かにそれをやらされているような気持ちになっている。だからといってすべてシャットダウンするなら社会に生きている意味がない。生きている意味がない。それを言葉にすれば「死にたい」ってことだろう。その感覚のスライドを引きとめるためのカウンセリングなのだと思う。
「自分のために話すことなんてほとんどないですよ」と俺は言った。自分のために話す、そんなことが世の中にあるのか疑問に思う。でも、あとで思ったけど、カウンセリングだけは自分のために話せているはずだった。そしてそれは金銭の受け渡しによって、1時間という枠によって守られているのだった。
「許されないという感覚、自分のせいだという感覚が五十嵐さんの根本にあると僕は理解しているんですけど、その奥にはどんな感情がありそうですか?怖いとか不安とか」と先生が質問する。俺はふさわしい言葉がみつからず、「いや、ぱっと浮かばないんですけど」と前置きしながら、それでもちょっとでも頭に浮かんだことを声に出すことに意味があると信じているので、「つらいですね。今もこの話をしていてしんどい。悲しい」と答えた。そう答えたときすでに俺は泣くか泣かないかの判断を迫られていて、それはつまり、自分のために泣くか、先生のために泣かないか、という選択だと俺は理解していた。先生のためというと語弊があるけれど、他人のため、場のため、機会のため、円滑に話を続けるため、ということだ。だとしたら、ここで選ぶべきことは自分のために泣くことだった。そこからはほとんど話にならなかった。
「先生、これはアクシデントじゃないんですかね。このつらさ、この状態は、気圧とか体調とか話の流れとか、事故として起こっていることだったりしないですかね」と俺は言った。「それは違います。ずっとあるんだけど、それを認めるのがつらすぎるんだと思います。でもこのつらさはあっていいんです。ようやく意識できるようになってきたのだから、ここで少しずつ扱っていけばいいことです」と先生は言った。俺はその返事を耳で聞いていたけれど、その場に留まっているだけで精一杯だった。
どんな一日になるのか、行きと帰りではまったく違うものになった。話すことはなかったはずなのに、予想外にハードなカウンセリングだった。でも、たしかにしんどかったけれど、気分が落ち込んでいるわけでもなかった。そういった苦しみの塊みたいなものが自分のなかにあるということを、わかっている方が寂しくないのだ。自分に対して、自分が寂しくない。これが俺なんだ。注意深く扱う場所を俺は手に入れたのだから、また次のときまで温めておけばいい。その夜はぐったりと疲れて、よく眠れた。

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