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療養日誌⑤

「精神的には落ち着いていました。何もかも免責されて、許されている感じ。気ままに本を読んで、寝て。こういう過ごし方もいいなと思いました。仕事も行かなくていいし、他人とも会わなくていい。ランニングもしなくていいし、映画館にも行かなくてもいい。選択肢が無いことが自分にとってすごく楽でした」

2022年8月23日。2週間ぶりのカウンセリング。8月は予定も詰まっていたので、息継ぎのタイミングが必要だと思って早めに予約しておいたのだった。まさか、そのほとんどを自宅療養に費やすとは、俺も先生も想像していなかったが。
これまでも休日の過ごし方についてたびたび先生と話してきたのだ。時間を有意義に使わなければいけない、自分を休めるために最適な選択をしなければならない、という強迫観念があって、休日を謳歌することができなかった。休日を迎えるたびに、「今日の自分にはいったい何ができるのか。どう過ごすのがベストなのか」と考えて憂鬱になっていた。そういった、不安に突き動かされる回避行動の連鎖から抜けられるようになってきたのはここ2,3年の話だ。何の予定も立てず、ちょっと散歩に行っただけでも今日は良い日だったと思えるようになった。いや、別に良い日じゃなくてもいい、まぁ、こういう日もあるだろう、と思えるようになった

「五十嵐さんはだいぶ以前と違っていると思うんです。思うんですけど、それでもまだ、許されないという感覚が根本にあるんですね。”したいこと”なのであれば、”しなくてもいい”じゃなくて”できない”という言い方になるはずです。”しなきゃいけない”という感覚が無意識に、サビのように残っているんですね」

使い古された中華鍋。固まって動かないネジとボルト。頭の中にイメージが浮かんで消える。しかし先生の話を聞きながら俺は、もうこれ以上は無理だろうな、と思っていた。残っているとはいえ、もう生活に支障は出ない程度までクリアになった。もちろん先生も、そのサビを落とすべきだとも、サビを落とせるとも言ってはいない。
自分が「したいこと」と「しなきゃいけないこと」を区別するのはとても難しことだ。突き詰めれば不可分なことかもしれない。したいことをするためにしなきゃいけないこともあって、したかったことをしているうちにしたくなくなることもあるのだから。そしてここでもまた俺は、大脳辺縁系の働きによって現実的な分別を見失うことが多いようだった。HSPは往々にして暇が苦手である、と先生は言う。大脳辺縁系の反応を絶え間なく受け取ることになるからだ。しかし、その反応を回避するために行動し続ける限り、大脳辺縁系の反応が休まることはない。有効なのは大脳辺縁系の反応に対して自らを曝露していくこと。不安を感じ切って放置すること。

それにしても貴重な体験でしたね、と先生は言う。五十嵐さんが療養期間に感じた”免責されて、許されている感じ”を、普段から持っていてもいいはずなんですけどね。先生はその”許されている感じ”のことを、「疑似的な安心感」とも言った。その”疑似的”という表現はよくわかる。連続的な日常の中では体験できないことをいろいろと体験した。社会制度的にも特例の状況下で、10日間。俺は疑似的な安心のなかで療養を謳歌したのだった。

ところで先生、前回のカウンセリングでどんな話をしましたっけ。8月6日。ひとつめは、「いろんな自分がいる」というお話でしたよね。他人に理解されやすい自分でいなきゃいけない、ひとつの自分でいなきゃいけないという感覚が五十嵐さんの中にある。そしてそれも”許されない”という不安からきている。だけど、「いろんな自分がいる」と自分自身で認めることができたというお話でした。もうひとつは、「抱きしめられるような安心感」の話です。五十嵐さんはそれを家族からは得られなかったかもしれないけれど、そういう感覚があるだろうことをイメージできた。そうでしたよね。はい、その話は覚えています。俺は、「いろんな自分がいるんだ」と口に出したとき、なにか自分自身の中にある核心に触れたような気がして、少しだけ泣いたのだった。

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