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眼球と籠球を天秤にかけて

実は私の顔面はグチャグチャだ。

眼窩底は陥没し、鼻孔はよじれて、上唇は通貫した穴がある。

すべて原因は15年間続けているバスケットボール


人生すべて自分次第 
酸いも甘いも納得して生きてる?

今日の「好きなことで生きる」ブームに違和感を覚えている。
フィルターバブルによって耳なじみのよいサジェスト・インの現代は、自身に都合の悪いものはなるべくシャットアウトされて人は易きに流れる。
そりゃ苦労しないに越したことはないが、今回私が問いたいのは「物事のメリットデメリットを踏まえた上でしっかり納得感を持って生活しているか」ということだ。

雑味が無くきれいに漂白されてつるんとしたものだけを享受していないか。

不必要な不機嫌

番組の間にCMがあるんじゃない。CMのために番組がある。

連日、流行疾病のニュースが報じられている。不思議な数字のフェイクや、偏向報道に首を傾げる人もいるだろう。
だがそれにいちいち理不尽を感じて気を悪くするのはお門が違うし、不必要
な不機嫌
だ。


企業で1番偉いのは社長?ではなく株主であって、主要テレビチャネルの株主は大手製薬系だったり大陸側の会社だったりしてそこに利益が流れるようになっているのは当然である。彼らが汚い人間であったり悪の秘密結社などと断定する理由にはならない。株式会社や資本主義という仕組みは「出資者が有利」という世界であり、これを読んでいる人の大部分は資本主義の国で生活し株式会社に務めているのだからその構造から目をそらして文句を垂れるのは些か浅薄だ。自社の利益のためや従業員の生活のために働く現場の人間がいて、企業努力の結晶であるコンテンツがある。それを売るためには平等で、サービス受給者のためだけを考えた皆が幸せになるコンテンツを流し続けることなど困難じゃないか。
コンテンツは視聴者のモノじゃない。CMのために番組があることを忘れてはいけないのだ。

YouTubeは無料の慈善団体だろうか?否、あのウザったい広告の閲覧数による収益が、便利で楽しいYouTubeを作っている。  

無料でオモロいモノが見れるんじゃないか。少しのマイナス部分にごちゃごちゃ言うんじゃない。だったらダイレクト課金をして広告を消そう。

こういうことを言うと安易に「陰謀論!」などと騒ぐが、私が言いたいのはそういうことじゃない。


何が言いたいかというと、

物事の成り立ちを想像し、いいとこ悪いとこ把握したうえで主体的に好きなことを選択して享受すれば、納得感が高くてとてもマインドフルである

ということだ。


バスケというストレス

一見健康によさそうに思えるスポーツも蓋を開けてみればバスケほど激しいスポーツになると、体に大量の活性酸素を発生させコルチゾールというストレスホルモンを貯め続けて寿命を縮めることになる。歩行困難や半身不随などの生活を脅かすほどの大けがをする可能性だって少なくない。
マラソンも同様で、胃腸を空にしてエネルギーを枯渇させながら走り続ける競技者の内臓はボロボロになっていく。人によってはフルマラソン後1週間はマトモなものが食えなくなるほどだ。

ただ私はその事実を知ったとき、何の疑いものなく趣味であるバスケットボールを続けた。
これまでバスケに育ててもらったし、なにより大好きだったからだ。「なんとなく今まで続けてきたから、健康に良さそうだから、モテそうだから」などの利便性みたいなものを排除し
「競技そのもの自体を愛する、例え寿命が縮もうとも」
と思えたとき、とても幸福なんだと腹落ちした。

キャリアフォーカス

そして20代後半に差し掛かる時、本当にこのまま15年間続けてきたものを何の形になせずにただの趣味として残すことに憤りを感じて、プロを目指し始めた。
自営業も始めていたし、やりたいビジネスも、留学したい海外も、始めたい芸術もあった。ただそれらを遅らせてもロングスパンでメリットデメリットを考えて自分の感情に問いかけた時、
イマしかない、20代という最も体の動くイマにコミットしよう、と決めた。後悔するのだけは嫌だ。すぐに沢山のものを犠牲にして激しいトレーニングを始めた。

そうしているうちにご縁とタイミングに恵まれて、気が付けば島に移住し、スポンサーさんに助けられて、子どもにサインをし、近くの定食屋さんで勝手にご飯を大盛りにされる日々を送っている。

眼球と籠球を天秤にかけて

ある日の衝突。
レントゲンを見ると眼球を支える眼窩底の骨がはっきりと割れていた。もしもう一度強打したら眼球が落ちて失明するかもしれない、と宣告されたのだ。
しかしながら、間髪入れずにそれでもバスケを続けるという決断をした自分がいたことに改めて驚いた

体力も、古傷のケガの日々のメンテナンスも、無機質にカロリーとビタミンを計算通り体に入れる作業も、結構しんどい。
ただ酸いも甘いも知った上でバスケを続けるという判断したことを自覚した時、なんだかより一層に吹っ切れた気がした。今は限界までバスケをやろうと思ったら、自分の中で納得感が溢れて向上心が渦巻いた
楽しい嬉しい 、と良い面だけを見て選んだらこうはならないだろう。デメリットを受け入れるとその先に覚悟ができるのだ。
まだまだ自分は成長しているし、伸びしろだって感じるし、沢山の人に応援してもらっているし、自分の未来も楽しみだと思える。

うむ。あと2年、最低1年くらいだけはこの負担だらけのバスケットボールという快楽と伴走してみたいと思う。


P.S

この拙稿の構想段階のプロットをお話ししたところ、こう反響を頂いた。「もっと華やかな光と地道な影の中身を聞きたい」
「お前らいいとこだけ見てんじゃねえよ苦労知ってんのか?ってことをもっと伝えたらいいんじゃないの」
との有難いお言葉をもらったので、その通りに書き足している最中に少し違和感が漂ってきた。
確かに暴露的に大げさな見出しを付けたらより見やすくはなるかもしれない、が、自分の本当の心がわかってきた。

それはみんな感謝が少なくて文句が多いってことだった。

自分で選んだ就職先や人生の方向性について文句を言う人が多かったり、不機嫌になる人があまりに多い気がして、衝動的に筆を取り始めて書きなぐり始めた感じだ。

私はあまり不機嫌という感情が少ない人間だと自覚している。
(他人からどう見えているかは知らないし、難しい顔をしているかもしれないが決して不機嫌なわけじゃないぞ!いつも眉間に皺を寄せててすまない!考えてるだけなんだ!)
なぜならそれは全て今の環境は自分で選択して作り上げたもの、と解釈して生きているからだ。

プロセスを知れば、モノの成り立ちのエネルギーも理解できるし、感謝もできる。
0→1のパワーっていうのは正しいだけの清廉潔白なものなんかじゃない。縦横無尽な混沌からある日に爆発したものだ。

自分で選んだ環境。文句と感謝の割合を逆転させることができれば人生に納得感が得れるし、禅やマインドフルネスよろしくもっとイマの自身の向上にフォーカスできるプロセスを知ろう。感じよう。


私はやりたいことが山ほどある。
ただ体力のピークという期限が決まっているからこそより全力で走り抜けられるのかもしれない。プロより甲子園が感動する理由はなんだろう?卒業というドラマがあるからだ。アメリカのNCAAの盛り上がりは市場的にも半端じゃなくアメフトのトップ監督の年収は七億に上る。
プロセスと文脈を共有するということはそれほど価値があるということ。

東京という四方八方からの刺激にまみれたインプットから少し距離を置いて、28年間貯めこんできたアウトプットを出し切るために物理的に逃げられない島に来たはずだ。あともうちょっとふんばれ俺

小豆島さいこー!!

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