「知覚過敏」と書いてアーティストと読む


緑に見えるあれをいつから「青」信号と呼んでいた?

青って言ったら青なのよ、そう決まっているから。と諭されて、なんとなく青と呼んでいる人間が大半だろう。
「私は最後まで調べた」「親からすぐ正しい回答が返ってきた。」
という人間は少数だと思う。
その中で「あれのどこがアオなんじゃ―!!」と訴え続けた人間があの尾崎豊なのだろう。

特に関心も無いまま育った人がほどんどかもしれない。
書物を読み、正解まで調べた人は学者になったかもしれない。
しかし「オトナがそう言ったからなんとなくこうだよね」って雰囲気に納得ができず過敏に反応し、違和感を持ったその叫びを作品としたなら、アーティストと成る。

彼の魂のメッセージは色褪せることなく、令和の今でも若者に心に響き続けている。
緑と青、どっちが正解か、ということでは無い。アートとは問題提起であり、本質の意味や価値を問いただすことであるから

この信号案件を尾崎豊診断と筆者は呼んでいる。

衝動

人はインプットした物しかアウトプットできない。
日々の中でどれだけ外の世界に意識を向けて、何を見て何を感じるかでアウトプットの質と量が変わってくる。

岡本太郎は世界を見て回り、常識というものを見つめ、常識に捉われずに一瞬一瞬に情熱のすべてをかけて自由を説いた。

ピカソは物事の多面性をこれまでに無い形で絵画という一次元に召喚し、森羅万象の複雑性を閉じ込めて人々の目を覚ました。

ウォーホルは大量生産大量消費、機械化する人間を憂いてキャンベルスープを並べて資本主義社会に釘を指した

五感を研ぎ澄まし、敏感に世界を見つめる天才たちは世界の異変に気づいてしまったら叫ばずには居られない。君のすぐ真横、大衆が無表情で列を成し無自覚に崖からスルスルと落ちていく様を見たら叫ばずには居られないだろう。

そのアート的な衝動が私たちの心に傷をつけてくれる

悠久の時を超える偉大な作品たち

人の悩みなんていつの日もそう変わるものではない。性愛、争い、お金
それらが、抽象されて、転用されて、時にメロディーとなり、時に一枚画となり、時に映画となり、人々の魂の共感を呼び起こす。
よき作品は普遍性を帯び、モナリザのように悠久の美を示してくれる。
珠玉の叫びは連綿と時を超えていく。

いま私たちが当たり前のように平等に何かを発言し、書き、主張し、選択している裏には、知られざる狂気の世界で戦い続けたアーティストたちがいるのかもしれない。

悩み苦しんでバスキアも尾崎も夭折し、三島は割腹をもって己の主張を完遂させた。
痛みを伴って生み出された作品たち。そんな偉大なる彼らが命を懸けた作品に思いを馳せながら、会話をして、勇気をもらって、享受できる日々の生活を私は心からを幸せに思う。

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