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イグジャッジ:幻の負け犬『幻の応募作品』へ

幻の負け犬作品

α代表 7.安戸 染『幻の応募作品』


 これよりイグジャッジを開始する。
 震えて読め。



前座・イグジャッジ:イグナイトファングマン respect for アサルトライフル

※飛ばしちゃってええよ。読む価値ないから。上に目次あるでしょ。そこクリックすれば飛べるから。ね?


 イグナイトファングマン(a.k.aサクラクロニクル) respect for アサルトライフルです。
 DPS出していきたいと思います。
 よろ。

 早速だが幻の負け犬の決定方法に異議がある。イグBFC4のフォーマットに則り投票形式で実施された本イベント。負け抜けを決めるというのはイグのイグという立場からすれば、まあわからないでもない。逆行すりゃいいという短絡的な発想は実にイグだ。その点は認めよう。
 だがそもそも投票という行為が正しいのかという点が疑問だ。有権者に実体があるのかどうかすら疑わしい。現実の選挙でさえ票田という形で全体像が見えづらい格差がある。もちろんのことだがTwitterみたいなSNSでも知り合いの多さがそのまま票田のおおきさに通じると考えられる。到底フェアではない。さらにそこに、投票の権利が人間ではなくアカウントに対して付与されているという問題がある。アカウントはひとりで複数持つことが可能だ。運営も運営アカウントと創作用アカウント以外に■個のアカウントを持っている。これではどこにも公平性など存在しない。
 投票というのは一見民主的に見えるが、実際は徒党を組めるやつが勝つという仕組みになっており、知名度を有する先行者とその集団が守る利益が強く、そして本イベントに至っては有権者の意識も低いときている。すべての作品を読み自分自身の意志で真に負け犬を決定した人間がどれほどいる? 各グループの総投票数が同水準でない時点で、本イベントには価値判断の不均衡が発生していると言わざるをえない。

 だからこそイグジャッジが必要ということだ。
 貴様らの決めた幻の負け犬など、オレは容易に信じぬッ!
 オレは自分の目で確かめ、己の価値判断基準に従って幻の負け犬をドブに突き落としてやるッ!

 というわけで全作品読んできた。
 覚悟しろよ、野良犬ども。

 採点基準はイグブンゲイファイター精神に則り、以下のようにする。

 最低保証:1
 可読性:0 or 1
 真面目:0 or 1
 アホ共感:0 or 1
 挑戦:0 or 1

 最低保証で1点くれてやる。
 リーダビリティが低い作品は0点。
 真面目に書いていない作品は0点。
 アホだなと共感できない作品は0点。
 挑戦的でない作品には0点。
 単純明快。
 この基準で全14作品を採点したうえで幻の負け犬をジャッジする。


1.赤木青緑『雨上がりのデスロード』

 3点。生と破滅の印象を強く想起させる作品。可読性が高く、生きることに真面目だ。だがこの小説は脳と指で書かれてるからアホではないし、大きな破綻もしていないので挑戦しているとも言い難い。もっと内臓を使ってくれてもいいのだぞ。

2.ユイニコール七里『ボンファス~Bon the first~』

 2点。楽しいお盆小説。読みやすいがノリそのものが不真面目で、自分で自分をアホだと思ってそうなところが、アホとして共感できない。なし崩し的なオチだが話自体は普通に着地しているので挑戦的でもない。そろそろ葬式を書くために人を殺すくらいはして欲しいのだがな。

3.鮭さん『くも』

 3点。超高速官能コメディ。可読性は高いが読者を置いてけぼりにしすぎていて真面目と称するのは厳しい。アホなのは否定できない。えっちだ、じゃねえよ! 挑戦的かと言われると、まだできるだろうという余力を感じたので、違うと判断した。この内容で挑戦してないって感じるなんて、アンタ相当だぞ。

4.大江信『嬉しい報告』

 3点。日常系小説。読みやすいし、テーマが真面目だ。真面目過ぎてアホだと言いづらい。それに、もっと書けるはずだ。挑戦を求める。

5.久乙矢『昇天祭』

 2点。男性器擬態系SF小説。読みやすい。しかしどこか投げやりに作られている雰囲気。同作者の他の作品と比較しているところもある。話の構造が終末系SFでアホなところに共感できない。メタ情報になってしまうが、過去作だと思うとどうしても挑戦点も与えられない。いっそのことGのレコンギスタの二次創作とかどうだろうか。与太すぎますかね。

6.サクラクロニクル『現 - Generator’s Folk Tale』

 1点。百合小説。読みづらい、投げやり、百合の間に性別不詳を挟む、いつものおまえの作品。すべてにおいて筆舌に尽くしがたいひどさだ。
 おまえはあとでかならず死なす。

7.安戸 染『幻の応募作品』

 4点。ホラー系ショートショート。句読点の打ちすぎで可読性が低い。テーマは意外と真面目だ。言い訳の内容がパックマンってのはアホだ。そして話の進め方がやや性急で目論見が失敗してそうなので、自身の力量を超える挑戦をしていると言えるだろう。ナイスガッツ。

8.今村広樹『人生のハリ』

 3点。皮肉系ショートショート。読みやすくて真面目だ。話の筋がアイロニカルでアホとは思えない。端正すぎて挑戦的とも言えない。この際だからウマ娘の二次創作とかで参加してもいい。二次創作はブルーオーシャンだ。

9.小林猫太『有馬記念の予想』

 3点。知識がある前提で書かれた文章が読みづらく、内容が不真面目すぎる。だが競馬の予想に狂ってるところはアホだ。それにこれがブンゲイとして成立するかもしれんと考えた点はやけっぱちチャレンジャーと称せる。

10.乙野二郎『くれいどるえんど』

 4点。クライムノベル。可読性ヨシ、真面目さヨシ。話の内容が悲痛すぎてアホだと思えないが、その結果として人造イグから抜け出すという破綻をしでかしている挑戦の心意気やヨシ。アホか、破綻か。残酷な二択に酔え。

11.やつかさ『回文世界記録』

 2点。回文伝奇小説。最悪の可読性、紙数埋めに取られかねない回文の連続、アホ要素のとってつけた感。よくない部分が多い。だが回文だけで世界を構築するという心意気は随一の輝きを放っている。ド級の真面目ド真面目の称号は他の誰にも渡せない。

12.夏川大空『あいうえお』

 3点。あいうえお恋愛作文。ひらがなオンリーのくせに読みやすい。読み心地がいいので不思議な真面目感がある。アホ要素は読み取れなかった。また体調不良とのことなので挑戦者としては失格。

13.さむぇんぷてぃ・おーぶん『ねたばらし』

 4点。Twitter大喜利。読みやすくてアホだ。大喜利として非常に真面目。だが既存のフレームを使うということは挑戦と呼べない。イグ本戦などで一般読者に評価してもらえばよいだろう。

14. げんなり『がっちがち』

 2点。なんじゃこの内輪ノリ小説はよ。変にネタ入れるから読みづらいだろうが。こうすればアホみたいに着飾られるとアホに共感できなくなるんだよ。こんくらいいつでも書けるみたいなもの書くのもいい加減にしろよ。だがイグ作品として色々なミスっぽい記述を意図的に仕込むなどやれるだけやってくる真面目さだけは評価してやる。って、人造イグじゃねえか! イグナイトファングマンはイグしようとしてイグする作品を許さない。許さない相手には必殺技を使う。
 覚悟せい。せーのっ!
 20倍イグナイトファング!
 追撃のアサルトライフル! ドガガガガ!
 成仏しろよ。


 というわけでオレの採点によると最低作品は6.サクラクロニクル『現 - Generator’s Folk Tale』で、評価は不動の1点だ。
 読者どもはなにを勘違いしていやがる。やはり投票による価値判断などなんのあてにもなりゃしない。世の中はクソで、人類はアホだ。


 改めて幻の負け犬である7.安戸 染『幻の応募作品』を作品単独で見てジャッジしてみよう。
 結論から言えば「おもしろい部分はあるが完成度は低いのでドブに突き落とす理由もある」だ。
 まず採点結果の4点。すでにこの時点で負け犬らしからぬ得点だ。だがこれはあくまでも採点基準に従った場合の話。あの採点には重大な欠陥がある。作品としてのおもしろさや出来を判断する基準がない。つまりいくら点数が高くてもエンターテイメントとしての文芸を評する採点にはなりえない。ジャッジの用いる基準として破綻している気がするが大丈夫か?
 初読の印象を話そう。この作品には笑わせられた。なにせパックマンだからな。実にイグい。パックマンの言い訳が始まったところで、可読性の低さ(=文章の書き方のすべて)に意味が見いだせてしまって笑ってしまった。だからおもしろくないとは言えない。
 しかし導入とオチのつけ方はあまりよろしくない。
 作品構造を起承転結に置き換えると、「起:投稿作品の末端部の展開 ⇒ 承:文体の異常 ⇒ 転:パックマンにやられたというネタばらし ⇒ 結:伝染性の恐怖」となり、ホラーショートショートが本作の行き着く場所だと読めるのだが、転まで読みづらいパートが続くため、作品への好感度が低い状態が全体の半分以上を占めるのは厳しい。昨今の読者のブラウザバックは早いからな。
 また、思いっきり笑ってしまったあとなので、気持ちを冷ましてからじゃないとあのオチの怖さは伝わりづらい。文体が読解にブレーキをかける(脳内音読派は脳内で句読点ごとに音にブレーキを踏みながら読む)ので、情報伝達そのものがスムーズにいかない点も難しい。結果としてホラーテイストのエンディングが興を冷ましてしまうという問題点を抱えている。下手に笑えるのも考えものかもしれない。
 まとめると「導入から読みづらさの理由づけまでが長く苦しい」「笑える理由の展開からオチまでの間に読者を冷やし切れてない」「ラストのホラーオチに対する説得力の肉付けがない」ことから〈負けに不思議の負け無し〉の精神で、ドブに蹴り落とすだけの理由を発見できた。

 というわけで幻の負け犬はドブに突き落とす!

 つみです
 でなおしてまいれ

 最後に、今回の結果は誠に遺憾であり、疑似的な合議制によって欺瞞的な結果のみを提示して人心を納得させようという本企画を弾劾させてもらう。
 だいたいオレだって『有馬記念の予想』とめちゃくちゃ競ってただろ! こんだけ自己採点が低いのになんでアレ以上みたいな扱いされてんだよ! 読者はどうなってんだよ読者は!
 オレは自らこのイベント主催したうえで参加者全員ぐちゃぐちゃにして家に帰し、それをもってして本イベントとそれに関連するすべての人間を不幸にするつもりだったってのによ! 許せん! イグナイトファング!

 ——遅くなったが説明しよう! イグナイトファングとは……イグナイトファング……? なんだそれは。なんかよくわからん。そもそもイグナイトファングマンって誰だよ。どうして主催者はこんな訳の分からないやつをイグジャッジとして採用したんだ?

 ——とにかく、このままではオチがつかん。連れて行け。


 やめろーっ! 離せ! オレこそがイグジャッジだ!
 裁くのはオレなんだーッ!
 ワァーッ!


 おあとがよろしいようで。


 ちゃんちゃん。




 続きまして、スーパーグレートゴールデンオールタイムベスト特別イグジャッジであるまっきー・ザ・γガンダムこと小林猫太氏による完璧で究極のジャッジ文でございます。
 皆さま、拍手でお迎えください!




真打・特別イグジャッジ:小林猫太

Judgment Time

 本当にどう書いてもいいんだな。あれ、そんなこと言われたかな。まあいいや。

 とりあえずイグBFCの予習をしよう。その方が話は早い。まあ、早い話になりそうな気は全然しないんだけど。

【リンク:note記事『イグBFCとは何だったのか』】

         ◯

 CRAヘブンブリッジというパチンコ台がある。あった。きっともうない。いわゆる「羽根物」と呼ばれる台で、普通のパチンコ台のようにデジタルで抽選するのではなく、開閉する羽根に運良く拾われた玉が最終的に当選ポケットに入れば大当たりになるという、過程だけは完全にアナログなシステムであり、わしゃあ機械など信用しとらんのじゃあ!とは叫ばないまでも、絶対に信用していないと思われる顔つきのおっさん達に人気の機種なのである。
 で、このヘブンブリッジなのだが、拾われた玉はまず微妙なバランス(に見えるだけ)のシーソーに送られ、ほぼ外れ確定の地獄ゾーンと大当たりの可能性を残す天国ゾーンに振り分けられる。その際、台はエレクトリックなボイスでこう叫ぶのだ。

「Judgment Time!」

 そんなわけでJudgment Timeです。前置きが長え!
 いやね、でも批評って案外ヘブンブリッジ的なものじゃないかなと思ったのですよ。ある作品を褒めようと思えばいくらでも褒めれる。貶そうと思えばいくらでも貶せる。批評者の胸先三寸で180度評価を変えてもたいして疑問も抱かれない。だってどこを見るかでしょう。完璧な作品なんてないし、どこを取ってもダメな作品だって……あるのかもしれないけど、それはそれですごい、と言えなくはない。つまり既存の価値観への挑戦だとか何とか。褒めるべきだと思ったら褒める。貶すべきだと思ったら貶す。玉の行く先は作品の出来とは関係ないんじゃないか。
 いやそんなことはない、素晴らしい作品は絶対的に素晴らしいのだと言うなら、その基準っていったいどこにあるんですか。そもそもこと文芸作品において、評価基準などが仮に存在しているとしたら、それはいったい何者の価値観で決められているのですか。なんてことを言うと、評論を生業にしている方は烈火の如く怒るだろうけど、フラットな批評なんて恐ろしくないですか。正しい評価の認定なんて権威主義の温床にしかならないとは思いませんか。
 私は批評もまた作品として読まれなければならない、言わば対象とした作品の二次創作と考えていいと思っている。敢えて「過ぎない」とは言いませんがね。だって作品より批評の方が面白いなんてことザラにありますもん。だからね、

 純粋に作品を評価するという意味での批評なんて所詮不可能なんですよ。

 批評しようとする者に出来ることは、批評という形での新たな作品を創出することだけであって、例えその知識と深慮とをもって作品にマウントを取って見せたところで、クソだ下手だバカだと罵って見せたところで、元作品の本質的価値には何の影響もない。まあ、影響を受ける「人」はいるだろうけれども。それは批評の責任であって作品の責任じゃない。堂々としていればよろしい。
 確かに「批評的に読む」という態度は創作者には大事なことだろう、けれど、そこには純粋な読者として読むという本来の読書から、極めて本質に近いものが抜け落ちているんじゃないのかと私は思う。だから私は、作品は作品として読むし、批評は批評として読む。そこにポイント移動はない。面白いと思った作品が批評でボロクソに瑕疵を指摘されていたとしても、作品の評価はいささかも揺るがない。そこで見方を変えるようなら、じゃあお前の読書って何よって話でしょうに。
 したがって私はJudgmentという言葉の意味通りにJudgmentをする気など微塵もない。これはJudgmentという名の作品である。逃げだと思うなら思うがいい。後指を指されて笑われようが、私の読みは正しいとかお前の読みは間違っているとか、少なくともそんなことは死んでも口にしたくない。そうした本質を外れた「文学的正しさ」が、これまでどれだけの書き手の筆を強引に折ってきたか、恐らく想像も出来ないだろうから。BFC1の時から言っていたはずだ。俺は地獄を見てきた男だと。

 さて、いつになくシリアスな文章、そしてなかなか始まらない本題、既にページを閉じた者もいるだろう。運営は早くも私を巻き込んだことを後悔しているに違いない。

 関係ないね(CV:柴田恭兵)

 こういう知らない人は知らないことを書くから批判されるんですよ酷評さほりに。そうは言っても酷評さほり自体が、Xにたまに現れる、とある人の批評用人格「酷評さゆり」の決してメジャーとは言えないパロディなのだから、彼女の指摘の自己矛盾が確信犯的であることは言うまでもないのだ。
 このいかにも雑なキャラがメインコメンテーターに起用された理由は。もちろんこの幻の決勝戦作そのものが雑なイベントだからである。そしてこのイベントが雑なのは、雑でなければならなかったからである。だからこそ運営は、不正はないという断言のもとで、あからさまな不正を臆面もなく実行して見せたのだ。まったく最初から最後まで隙なく、しかし意図的に雑だったのである。穿った見方をすれば、このイベントそのものがイグBFCのパロディに他ならなかったとも言える。そうしなければならなかった原因は、ぜひ自分で考えていただきたい。私は既に正解に近いコメントも目にしている。ヒントは拙文『イグBFCとは何だったのか』と、これから書く文章の中にある、かもしれない。ないかもしれない。一向に敗北作の話にならないが、何を書いてもいいと言われたので好きに書いています。いやだってもう酷評さほりが全部書いてるじゃん。この期に及んで何を書きゃいいのよ。

 でもまあ書きますが。

 SCP財団というサイトをご存知の方も多いだろう。世界に存在する物理法則を超越した物体・事象を秘密裏に確保・収容・保護する組織という設定で、奇怪なオブジェクトに関する創作が集まる場所である。その中にSCP-404-jpとナンバリングされた事象がある。ぜひその目で確認してもらいたい。注意事項としては、ページを開いたら何か変化が起こるまでブラウザバックしないように。

【リンク:scp-404-jp】

 そう、このページは自動的に、まるで見えないパックマンが現れたかのように、文章がどんどん消えていく仕掛けが組み込まれているのだ。つまり『幻の応募作品』において作者が事後報告していることをリアルタイムでやってのけているのである。私が『幻の応募作品』を読んで真っ先に連想したのがこのSCPオブジェクトだった。そして「ああ、一周遅れている」と思ってしまったのである。文章表現としての独自性を既に、とうの昔に奪われてしまっていたからだ。
 文章、ひいては小説というのは、極めて情報量の少ない媒体である。丁寧な描写を何十ページ書き連ねても、たった一枚の画像、一コマの漫画、一秒の映像にも遥かに及ばない。だからこそ我々は表現、文体にこだわり、他の媒体よりも「面白く」出来る話を探す。無論、他の媒体は他の媒体で進化を続けているのであるから、これは頭脳の限りを尽くしたデッドヒートゲームである。そういう意味で、javascriptというテクノロジーに先を越されたアイデアは、プラスアルファがなければ見劣りしてしまうのは如何ともし難いわけである。結局アイデアに依存してしまったが故に負けた、ということであろう。
 だが、このイグのニューカマー安戸染氏が非凡であることも自明だ。最初の画像を見て、私はてっきり配置をミスったのだとばかり思ってしまった。初手で読者を思い通りの罠に嵌めるのは容易いことではない。そしてその後の文章に同じ仕様を用いない思慮、さらに70年代アメリカのB級SFホラーを思わせるまとめ方、つまり「ちゃんとしている」のである。この陳腐と言っていいアイデアをしっかりとした作品に仕上げているのだ。これはもう、ここで負けたのは力学的な干渉で玉がたまたま地獄ゾーンに転がってしまっただけなのである。「玉がたまたま」は狙った表現ではないのでそこの人は黙りなさい。たまたまです。

 いやそれよりも(なんということでしょう、ここからが本題です)

 ある方が呟いておられましたが、実は「ちゃんとしている」という表現は安戸氏の作品のみならず、あのしょーもない一作を除いた決勝、うんにゃ、決敗進出作すべてに当てはまることにお気付きでしょうか。そうなのですよ、酷評さほりが看破しているように、久乙矢氏の『昇天祭』も乙野二郎氏の『くれいどるえんど』も、一読して誰もがわかるように「しっかりと作ってある」のです。特に『くれいどるえんど』は初代林家三平のギャグをやりたいというただそれだけのために、あえて初代林家三平的な意味の不連続を最初から組み込んでいるんじゃないかと私は疑っているのですが、そうでなくとも普通であれば欠陥と指摘されるであろう意味の断絶が、イグにおいてはなぜか「ちゃんと作っている」という印象になってしまう。ここに反権威としてのイグの特性と、同時に限界を私は見てしまうのです。

 イグが拡散する不定形の概念であるという推察は『イグBFCとは何だったのか』でも言及しているのだが(文体がコロコロ変わるのは、それについて書きやすい方を自動選択しているだけなので、意図もなければ指摘も受け付けません)、その中で私は、イグがイグであるというアイデンティティはもはやどこにもないのではないかという、そうは言っていないがそういう意味のことを書いた、と思う。書いてないかもしれないが、本人はそのつもりなのでそういうことにする。書きました。しかし、ここに来て事態はより深刻化しているように思える。
 xにもポストしたのだが、どこかのアホが書いた『有馬記念の予想』は、このような状況、つまりいろんな局面においてイグであるものがむしろ積極的に選ばれるような現状にあって、未だイグであるものがあるとするなら、それはイグである必要がない、逆にイグであることが邪魔でしかない、例えば製品の取扱説明書がイグであるようなものではないか、という仮説に基づくものであった。そもそもイグというのはどんなコンテストでも真っ先に「選ばれない」ものであったはずだ。その前提が破れた今、いったいイグとは何なのか。そして決勝戦、うんにゃ、決敗戦の諸作品は、私に一つの絶望的な結論を突き付けるに至った。

 イグを書こうとして書かれたイグは既にイグではない。なぜなら今となってはどこかで選ばれてもおかしくない程度に「ちゃんとしている」から。

 さあ、我々はどうすればいいのだ。いったい、今、イグとは何なのだ。後半につづく。

         ◯

 あー、なんか今運営からジャッジ文のプレビュー送られてきたんだけど、ちゃんと全作品ジャッジしてるじゃん。いいのかなこれ。一応ジャッジしようかな。最初にJudgmentしないとか言っちゃったしな。

 するか。

 明日。

(この文章はリアルタイムで進行する)

         ◯

 なんてこった、すっかり明日になってしまった。ジャック・バウアーだ。どきどきキャンプでは断じてない。まだ読んでいるか。クソッ、応答がない! こうなったら俺一人でもやってやる!

(点数は個人的イグレベル)

1赤木青緑『雨上がりのデスロード』

 普通にいい話じゃないですか。どういうことなんですか。他に出した方がいいんじゃないですか。これを私にどう語れと言うんですか。どこがイグだ。えーっと、応募要項をちゃんと読んだとは思えないところがイグ。2点

2ユイニコール七里『ボンファス〜Bon the first〜』

 隣の家に回覧板を届けるノリで時空を超えてみせるにもかかわらず、下手に物語的起承転結に収めない正統派イグ。言わば試験に出るイグ。欲を言えばなにかこう、突拍子感が欲しいところではある。4点。

3鮭さん『くも』

 横綱が立ち合いの猫だましからのラリアットで勝ち、インタビューで相手について聞かれて「えっちでした」と答えてるような作品。何言ってんだか自分でもわからないが、他にどう言えばいいんだよ。1点。

4大江信『嬉しい報告』

 えーっと、何だこれは。困ったな、何度読んでもわからん。一読してイグならわかんなくてもいいんだが、これここになかったらたぶんイグだとは思われないんじゃないか。じゃあ何だと問われてもやはりわからん。新たなるイグの萌芽かもしれない。きっと違う。1点。

5久乙矢『昇天祭』

 題材がもはや懐かしいまでのイグ。初期の主流イグをあえて持ってきたところに作者の深い逡巡が窺える。伝記ファンタジーの枠組を逸脱出来ていない点は惜しい。4点。

6サクラクロニクル『現−Generator's Folk Tale』

 てめえ、イグなめてんのか! てか生きていたのかイグナイトファングマン! 0点。

7安戸染『幻の応募作品』

 前述の通り。一発アイデアで書き切った作品。いや、自分もそれやるじゃん。もう一捻り欲しい。ほしぃ、大リーグボールを投げるんじゃあ! 3点。

8今村弘樹『人生のハリ』

 何と言われようと頑なにこのスタイルを崩さない作者の姿勢は、変化を続けるイグに対する静かなる挑戦と言っていいであろう。違うような気もする。1点。

9小林猫太『有馬記念の予想』

 てめえ、イグなめてんのか! しかも出ねえよモレイラ! 短期免許期間くらい調べろよ! 0点。

10乙野二郎『くれいどるえんど』

 先に触れた通り。初代林家三平で大笑い出来るのがイグ者であり、どこが面白いのかわからないのは非イグ者である。イグの本質を抉り出した作品である。そうなのか。5点。

11やつかさ『回文世界記録』

 どう考えても誰一人ちゃんと読まないであろう文章を真夜中に入力し続ける作者の図は、火薬を敷いた圧力釜に釘や鉄球を詰め込んでいるテロリストのそれに近い。まだ間に合う。引き返して欲しい。2点。

12夏川大空『あいうえお』

 実は作者はイグBFC1の第一号参加者である。仕掛け自体はありふれ過ぎているほどありふれているのだが、真底楽しんで参加していることが行間から透けて見える。なんかもうそれでいいじゃんと思う。イグの基本であり、創作の基本であろう。3点。

13さむぇんぷてぃ・おーぶん『ねたばらし』

 ひどい。その筋から怒られても言い訳出来ない程度でひどい。だが、一歩間違うと……の「一歩」をあえて間違うと、そこから見える風景は一気に変わるだろう。どう変わるのかは一歩の幅による。キックボードで峠を攻めるかの如きイグ。あぶない。4点。

14げんなり『がっちがち』

 何を言っているのかだんだんわからなくなってくるのだが、唐突に自分が編集した新潟SF別冊が登場し、結局何が何だかわからないまま新潟SF別冊だけが記憶に残る。あざとい。これはもう新潟SF別冊を読まなければこの作品を読み解けないのではないか。ということで新潟SF別冊をよろしくお願いします。今増刷中です。10点。

 以上。簡単で申し訳ないのだが、私としては簡単にならざるを得ない、というか、イグをイグとして語るのが苦痛になりつつある。どの作品にも「イグとは何か」を考え悩んで迷走した軌跡を見てしまう。実際には悩んでも迷走してもいないかもしれないが、私には見えてしまう。あるいはその末に「イグなんてどうだっていいんだ」と開き直った捨て鉢を感じてしまう。実際には鉢など捨てていないかもしれないが、私には感じてしまう。それは私だけか。そんなことはないだろう。酷評さほりだって気付いたのだから。
 本家BFCの幻の決勝戦作には多くのコメントが寄せられた。こちらはどうだ。
 イグBFC4も決勝こそそこそこの投票があったが、予選の投票はどうだった。いやそれより、どれほどの感想を目にした。
 そしてBFC本戦における「明らかなイグ」への反響はどうだった。
 この対比をどう思う。どう解釈する。

 はっきり言って、少なくとも私から見て、これらの作品の多くは劣っているわけではない。
 ただ「場所」が違うだけだ。
 異論は認めない。私から見ればそうなのだ。批評者としての私のJudgmentはそうなのだ。
 違う、劣っていると言うなら、その基準は何だ。その価値観は本当に正しいのか。そもそもちゃんと読んで言っているのか。その判断におまえ自身の感性は本当にあるのか。
 ボーッと読んでるんじゃねえよ。なぜ最初に批評についての話などしたと思う。
 ただ、注目されるイベントとされないイベントがあるだけだ。それだけだ。

         ◯

 だから、そろそろ誰かが言うべきなんじゃないだろうか。

 イグなんて、もうないんだと。

         ◯

「超芸術トマソン」という概念がある。これは「不動産に付随して維持されている無用の長物」を指し、役に立たないにもかかわらず保存されている存在は芸術のカテゴリに入れても良いのではないかとして、芥川賞作家赤瀬川原平氏らが提唱したものである。建物の解体や改築に伴って残されたどこにも通じていない階段や出入り不能なドアなどがこれにあたる。ちなみにトマソンの名の由来は、当時読売ジャイアンツに助っ人外国人として在籍していたゲーリー・トマソン選手であり、彼が三振や凡退を延々と続けながらも執拗に起用されていたことによるものである。
 ここで運営の許可も出ているので宣伝ですが、私の野球短編集『キャッチャー・イン・ザ・ライズ』に収録されている『超外国人トマソ』は面白いと評判なのでみなさんも読むように。Amazon Kindleで発売中です。安っすい電書もあるよ。よろしくね。
 閑話休題。
 で、何が言いたいのかというと、絶え間ない拡散と変質の結果、イグの概念は超芸術トマソンと同質のものになってしまったのではないか。つまりそれを目的として作り出すようなものではなく、様々な場所に自己主張なく存在していて、第三者によって見出されるものに終着したのではないか。誰かがある作品を「イグだな」と思う、その時に初めて立ち現れる「作品に付随する」属性の一つになったのではないか。そんな感じがするのである。と同時に、これがイグの変容の最終形態であろうと私の本質的直観は判断しているのだ。
 それは取りも直さず、イグBFCというイベントの役割が本質的終焉を迎えたことを意味している。

 ところで、言うまでもない事だが、と言いながら私はいつも言ってしまうのだが、最近イグBFCで名を馳せた者の活躍が目覚ましい。
 第一回優勝者佐川恭一氏の躍進はご存知の通り、第二回・第四回優勝の吉田棒一氏がこれに続こうかという勢いだ。ちょっと見かけたんだけど、第一回決勝に残ったニガクサケンイチ氏も本出しませんかってモーションかけられてましたよね。
 いいと思います。イグBFCが作家人生における一つのきっかけになったのだとしたら、主催者冥利に尽きるというものです。
 あれ、第一回の決勝に残ったもう一人誰だったっけ。
 俺だよ! しらじらしい!
 まあそんなことは絶対にないだろうしそんなことになるようなものも書いていないのだが、もし仮に万が一、書籍化なんて話が来ても、それがイグを要求するものであったら私は死んでも受けない。これは本気だ。本気と書いてホンキと読む。だってそうでしょう、「弾かれし敗者の祭典」の代表が嬉々として表舞台に出て行ったら、もう政治資金パーティーどころの醜聞ではない。イグと共に草として市井に忍ばなければならない。名もなく地位なく姿なし、されどこの世を照らす光あらばこの世を斬るイグもあると知れ(ここで脳内に『影の軍団』メインテーマが流れる)
キャー、千葉ちゃんカッコいい!

 私がイグBFCのステータス化を我慢できないのだろうという推察はまさしくその通りではある。おい、たった今言ったことと矛盾するではないか、イグBFCで活躍した者が脚光を浴びるのは望ましいと言ったではないかと突っ込みを入れているそこのあなた、そうですよねー。
 ただですね、反権威というやつが、目標を達成してしまうと容易に権威仕草を始めてしまうパターンは嫌というほど目にしているでしょう。イグBFCは「俺たちの面白いがなぜ認められないのか」という反権威を土台にして始まっています。そしてそれが着々と認められつつある今、少なくともそれを土台にしている人間はそこにいちゃあいけない。そういう意味では、私にとってのイグBFCは最初から大いなる矛盾を内包していたとも言えるわけです。認められるということは、それなりのステータスが勝手に付与されるのは致し方のない事だからです。
 ということで、ここに宣言します。

 私にとってのイグBFCは只今をもちまして完全に終了いたしました。

 ありがとうございました。楽しかったです。またいつか別の場所でお会いしましょう。

 ……で終わってもいいのだが、一応言っておくと、これはあくまでも「私にとって」であって、イグBFC5は開かれないと言っているわけではない。ただし、これまでのイグBFCの理念を継承するならば、今回の幻のイグ……ええい面倒くせえ!マボッシヨのような形にせざるを得ないだろう。運営の不正をもエンタメとして昇華し、最後まで残った者に本当に何ひとつ与えられることのない、最低最悪のアウトローイベントとしてしか開催出来ない。だが果たして、そんなイベントに周囲の耳目が集まるだろうか。まあね、集まんなくて結構と言うならそれはそれで。どれがどれでだ。いっそ権威化を目指す新イグBFCでも構いませんがね。否定はしません。もちろん私は参加しませんけど。

         ◯

 いやすごいなあんた、こんな文章を最後まで読んだのかよ。謹んでノーベル物好き賞を授与します。

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